不老不死は持続可能性を実現するか?

「幸せ」がどういうものであるにせよ、結局、つまるところ、「持続可能性」はキーワードになる気がする。人によって幸せの形は違うとしても、それを持続させることの重要性については、誰にとっても一様に真なのではないか。

究極の持続可能性ソリューションとして古くから求められてきた要素の一つとして、「不老不死」がある。人間が老いて死ぬことは、遺伝子に仕組まれたプログラムであり、それをちょいといじくれば、不老不死を実現することはできるらしい。では、果たして、不老不死は持続可能性を実現できるだろうか。

まず、不老不死を成り立たせるために、幾つか前提が必要だ。一つは、繁殖しないこと。みんなが不老不死で、繁殖すれば、人口は永遠に増加することになる。土地も足りなければ、食料も足りなくなるので、これでは成り立たない。だから、不老不死となった数人が永遠に生き続ける、となる。

次に、「なぜ、人類は老いて死ぬことを、あえてプログラムしたか」という問題。これは、進化するためだったと考えられる。老いて死ねば、適切な期間で世代交代が起こる。1個の人間が大きく変化するのは難しいが、別の個体として作り直せば、それは可能だった。

とすると、不老不死を開始する時点(老いて死ぬプログラムをちょいといじくった時点)で、人類は完璧でなければならない。不老不死は、それ以上の進化を放棄するからだ。繁殖を否定したので、不老不死の種は個体数を減らせない。1体でも死ぬようなことがあれば、種の存続はそのたびに危険にさらされる。

不老不死を開始した時点で完璧だったとしても、周囲の別の種(例えばおサルさんとか、ウィルスとか)が進化を進め、人よりも強くなり、人を脅かすようになった場合、どう対応できるか。そのときは、人類はもう一度進化しなければならない。繁殖をやめた人類が再び進化することが簡単ではないことは想像に易い。しかし、進化しなければ、人類は滅びてしまい、持続可能性は実現しない。

必要に応じて繁殖すればいいじゃないか。とも考えられるが、普段使わない機能は退化してしまう。盲腸がそうであるように。とすれば、例えば500年後のあるときイキナリ新しい子孫を生み出そうとしたって、できるかどうかわからない。

不老不死に持続可能性を求めると、どこかで矛盾が起こる。生まれて、生きて、老いて、死ぬというライフサイクルは、種の持続可能性実現に不可欠な要素だと考えられる。

1個の個体が永遠に存続することは効率的ではない。だから、世代を交代しながら、種の能力や経験を、未来の次世代に引き継いでいかなければならない。遺伝子に組み込むことで自動的に引き継がれる要素もある。でもそれだけではカバーしきれない要素もある。

消去法的なアプローチではあるけれども、そうなると、やはり教育なのではないか。


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コヤナギ トモヤ

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