生きるために、生きようじゃないか。

生きるために生きるのは、虚しい。虚しいモノだと、ずっと思ってきた。だけど、もしかしたら、生きるために生きることこそ、生きることの本当の目的なのかも知れない。と、少し思い始めている。

私は、生きる目的を進化する事と位置づけた。これは、当面は間違いじゃないと思う。でも、進化しつくした時にどうなるか、その先が表現されていない。「進化の究極は死である」とかいうが、やはり最後に行き着く先は、ただの「死」でしかないのだろうか。それはそれで虚しい。

進化を極めた先輩を見てみる。シーラカンスとか、カブトガニとか、ゴキブリとかだ。彼らは遠い昔からながーい間、ほとんど姿を変えていない。だから、進化を極めたと考えられている。しかして彼らは、進化を極めたにも関わらず生き続けている。死んでなんかいないじゃないか。

進化を極めたのに生き続けている彼らは、「進化するために生きている」とは、なかなか言い難いものがある。「生きるために生きている」というのが、最も相応しく自然に感じてしまう。他の意味はにわかには見出せない。

つまり、これが種の目指すべきゴールの具体的な形なのではないか。生きるために生きることができるようになるために、進化しなければならないのではないか。生きるために生きるのは、実は最高に幸福なことなのではないか。と、そう考えてみたのだ。

シーラカンスも、カブトガニも、ゴキブリも、神様みたいに完全無欠な生物に昇華したとも言えないが、同じ状態を維持し続けているという点が、その種の完成度を意味しているのだと思う。完全無欠でなくても、彼らは彼らなりの方法で「持続可能性」の法則を確立したのだ。だって、人間はこれまで仇敵ゴキブリをしこたま忌み嫌い、次から次へといろんな兵器を手に挑戦してきたけれども、絶滅させることはできないじゃん。やっぱ強いよ、彼らは。それくらい強力な「持続可能性」を、ゴキブリは実現している。

その意味で、人間はまだまだ未完成だ。だから、当面は進化が目的でいいのだと思う。だけど、その先に、生きることそのものに喜びを感じ、その穏やかな幸福が永久に継続される世界を目指していて、それこそが進化の目的なのかも知れないと考えると、やっぱり「持続可能性」の確立は、常に念頭に据え置いて考えられるべき最重要課題なんじゃないかと思えてくるわけです。


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コヤナギ トモヤ

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