日本人は "みんなで考える" が ド下手クソ だと思う理由

日本人は云々、海外と比べると云々、という話をすると、違和感を感じる人がちょいちょいいるんだろうなぁ、とは思いながらも、今回はこのまま行っちゃいます。

日本人は、みんなで考えるのが下手クソです。下手クソなはずです。なぜ下手クソなはずなのか、考察してみたいと思います。

"みんなで考える" のが上手か下手かの前に、そもそも考えるというのはどういうことか、について整理するところから始めたいと思います。

考えるということは、端的にいうと問答のこと。

例として、ランチで食べるものを決めるとしましょう。 「ランチで何を食べるか?」というのが最初の問です。この問に答えれば、ランチで何を食べるかが決まるわけですが、いきなりダイレクトに答を出すことはできません。

  • どんなメニューがあるか?
  • お腹の調子はどうか? すごく減ってるか?
  • 昨日は何を食べたか?
  • 栄養バランスは? カロリーは?
  • 冷蔵庫には何が入ってる?
  • 食べたいものは何?

こんな風に、沢山の副的な問を立てて、それぞれに答を出していきます。自分はそんな風に考えてないよ!と思う人もいるかも知れませんが、きっとそんなことはないはず。気づいてなくても、無意識のうちに問を立てているはずです。そして、それら網羅的な沢山の問と答の内容を総合的に評価して、最初の問に答えることができるわけです。

これが 問答 = 考える ということ。

つまり、全ての "考えること" の始まりには、必ず問がなければ始まらないということになります。

では、私たち日本人にとって、問とは何でしょうか?

それを端的に理解できる資料が、うちの本棚にありました。1962年初版の『いやいやえん(福音館書店)』という絵本の中にあります。

『いやいやえん』 4〜5ページ目

「しげるちゃん! おかたづけのときに、すもうをしていいのですか? ものおきで、かんがえていらっしゃい。」
「しげるちゃん、まどにのっていいのですか? ものおきで、かんがえていらっしゃい。」
「しげるちゃん、おともだちを、けっとばしていいのですか? ものおきで、かんがえていらっしゃい。」

これらにはすべて疑問符がついています。だから問です。良いか、良くないかを聞いているので、YESかNOで答えられるはずの簡単な問です。しかし先生は、初めからYESもNOも期待していません。答は聞く前から決まっています。予め決まっている答と同じ答を出さないときは、罰を与える用意があります。つまり、大人が定めたルールに従わなかったしげるちゃんを責めているのです。自分がこの疑問符を発したら、しげるちゃんは黙って従う、それを期待してるだけです。

日本人は、だいたい幼稚園に入るくらいの頃から、このような問ならぬ問責を沢山受けて育てられます。それ以外に、何かを問われる機会は多くはありません。身の回りのほとんどのことを、大人が勝手に決めてしまいます。子供には問わない(聞かない)まま。

こうして、"問われること" は、"責められること" にすり替えられ、幼少期から体に叩き込まれてきたわけです。

うちの6歳の娘に「今日はお風呂に入らなくていいの?」と聞くと、「はーい」と返ってきます。これが「YES、お風呂には入らなくていいんだよ!」と言う意味ならそれでいいのですが、これはそう言う答ではありません。「はいはいわかりましたよ、入ればいいんでしょ、入れば・・・」と言う意味の「はーい」です。娘には、「(遊んでないでさっさとお風呂に入りなさい!)」という、声なき暗黙のメッセージが聴こえてしまうのでしょう。それに屈服した回答です。

本来、問と答は、他者と共有できるはずのものです。"みんなで考える" とは、問と答を共有することです。 しかし、問 = 問責 という習慣を叩き込まれた私たちが、他者から問を受け取るとどうなるでしょう。「はぁ!? なんなの?俺が悪いっての!?(怒)」のように、攻撃されたと受け取ってしまい、防御と反撃の体制をとってしまいます。脳が考える前に、脊髄反射的にそう反応するように調教されているわけですから、仕方ありません。

1人で考える自問自答は上手です。自分が自分に責められているとは感じないでしょうし、もしそうでなくとも、自分を責めている自分、他人に優しく自分に厳しい自分は、どこか誇らしく、輝いてさえ感じられるものです。

ところが、問を他者と共有しようとした途端、攻撃と防御と反撃の狼煙が上がってしまうわけです。

これが、日本人は "みんなで考える" のがド下手クソだろうと思う根拠です。

では、日本以外ではどうなのかというと、ぶっちゃけよく知りません。よく知りませんが、まぁおそらく、日本とそんなに大きくは変わらないんじゃないかなぁと、なんとなく思います。

でも、教育世界一と謳われるフィンランドの教育や、最近よく見かける アクティブラーニング のような話を見ていると、問との付き合い方も少し違いそうです。彼らは子供が学びたいことは子供自身が選んで学ぶし、先生も教科書の答を片っ端から押し付けるような接し方はせず、子供達自身の中からそれを引き出そうとするそうです。

  • 何に興味があるの?
  • どんなことをやりたいの?
  • どんなことを学びたいの?

たぶん、こんな感じの、問責ではない問いかけによって引き出すのでしょう。子供の傍に立ち、一緒に考える姿そのものに見えます。

かく言う私は、問責を叩き込まれた ザ・日本人の1人なので、やはり問われると脊髄が勝手に反撃してしまう癖がついています。 頭ではわかってるつもりなので、必死で問答しようと努めますが、脊髄反射を制御するのはなかなか難しく、「はぁ!!?(怒)」となってしまうこともしばしば・・・。(反省)

そんなわけで、

  • 何に興味があるの?
  • どんなことをやりたいの?
  • どんなことを学びたいの?
  • 楽しいことは何?
  • 好きなことは何?
  • 何を食べたい?
  • そんなとき、どうするのがいいと思う?

子供たちには、問うことにも、問われることにも早めに慣れて、建設的で楽しい問答ライフを送ってもらえるよう、できるだけたくさんの問い掛けをしてあげたいと思います。

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