権限責任一致の原則は、権利にも権力にも適用できる、というお話

ここ最近の10年くらいの間に学んだことや気づいたことを、少しずつ文字にして整理していきたいと思っています。

"権限責任一致の原則" はそのひとつです。

この原則について、ググって見つかる多くは、マネージャーや経営者のためのもので、「部下には、責任を持たせるだけでなく、責任に対応する権限をあわせて割り当てないといけない」と説明します。これはもちろんその通りだと思いますが、さらに範囲を広げて、この原則は 権限 に限らず、権利 や 権力 にも同様に適用できるのではないかと考えています。

本稿では、権利、権限、権力、責任 などの言葉の意味や、それぞれの関係を整理し、 具体的な例を挙げながら 権限責任一致の原則 について考えたいと思います。

権利、権限、権力 の違いは何か?

まずは言葉の定義から整理していきたいと思います。辞書を引くと、それぞれの境界はやや曖昧な感じがしますが、本稿では次のように定義して考えたいと思います。

権利、権限、権力に共通していることは、選択できる、意思決定できる、裁量を持っているということです。

その内、自分のことを自分で決められることを "権利" と呼びます。

合意と委託を得て他者の意思決定を代行すると、 "権限" と呼ばれます。

"権力" は "権限" と似ていますが、合意も委託もないのに強制的に意思決定を代行する場合に "権力" と呼ぶと収まりが良いでしょう。

決められる ということは、支配(コントロール)できるということです。 自分で自分自身のことを支配できるのが "権利"、委託を受けて他者を支配するのが "権限"、 委託なしに他者を支配するのが "権力" とも言えます。

"権力" は普通、表向きは "権限" と同じ姿で現れるので注意が必要です。

例えば、多数決でリーダーを決める選挙の場合、みんなで決めたので合意があり、合意に基づいて意思決定を委託したとみなされます。これを前述の定義に当てはめれば、"権限" にあたるでしょう。しかし、投票で多数派となった人にとっては確かにそうかもしれませんが、少数派にとっては納得できない(=合意できない)でしょう。

他にも、 ジャイアンがスネ夫からおもちゃを借りるときの例があります。ジャイアンは、拳を振り上げ、「断ったらどうなるかわかってんだろうな?」という威圧的な態度で「ラジコン貸して」と言います。スネ夫は、本当は貸したくないのに、ぶん殴られるのが怖いので 渋々同意します。

選挙の少数派とスネ夫に共通するのは、表面的には合意しているが、納得はしていないということです。これは、消極的合意と言い、本当は合意していない状態です。なのでどちらも、一見して "権限" のようにみえますが、実際は "権力" を振りかざした例だと言えます。

"権力" は、「本当は NO なことを、無理やり YES に変えさせる力」 と言い換えてもいいかもしれません。

責任とは何か?

"責任" とは、結果を引き受けることです。良い結果でも、良くない結果でも、それを誰のせいにもしないことです。それは、良い結果を導くために "自分にできる限りのことをやりきる" という振る舞いを導きます。

もちろん、どんな活動においても、良い結果を出すために様々な努力をするわけですから、特に問題にされるのは、良くない結果になったときです。それを、良い結果に変えていくために、あらゆるできることをやるのが、責任ある態度です。

日本の古い武士の時代には、仕事でよい結果を出せなかった時に、責任を取って切腹する、というような文化がありました。現代においても、切腹ほどの残虐さはありませんが、 業績の芳しくない、あるいは汚職や内部の不正などが明らかになった組織のトップや政治的な要職にある人物が、辞任や辞職をするなどがあり、その際に「責任を取って職を辞する」ような主旨のコメントを聞くことがあります。

これは、見方によっては、「自身には十分な能力がないことを認め、要のポジションに自身がい続けるよりも、能力のある人物にその仕事を引き継ぐことの方が、良い結果を出すためにできることとして妥当である」と捉えれば、確かに責任を取ったと言えるかもしれません。 しかし、安易に辞任や辞職を選択する前に、できることのすべてをやったのか、について確認しておく必要があります。

"良くない結果となったことを誰のせいにもしない" ということは、 "自分にできることはすべてやりきった" ということが前提になって成り立ちます。もし、辞任や辞職が、そのときできることの最上の選択でないならば、ひとまずその任にとどまり、他のできることを実行するべきです。

「辞任さえすれば責任を取ったことになる」という 切腹的 な風潮は、安易に職権を放棄することを良しとしているように思います。それは、責任ある態度とは言えません。

権限と責任は、なぜ一致している必要があるのか?

権限(権利と権力を含む)とは、 "意思決定できること" でした。 そして、責任とは、 "できる限りのことをやりきること" でした。

自分が意思決定できないことは、自分にはできないことです。 つまり、「権限がないということは、責任を果たそうにも やりようがない」ということになります。

やりようがない 状況の人に 責任 だけを問うたところで、意味がありません。問い詰めようが、叱りつけようが、罰を与えようが・・・、やりようがないものはどうにもできないのです。

従って、責任を果たすためには、それに必要な権限を同時に持っている必要があるということになります。

この原則は、逆向きに捉えることもできます。つまり、「権限を持ったならば、それに対する責任が必ずついてくる」ということです。

例えば、あなたは、ある従業員を解雇する権限を持つ立場にあるとします。この権限を行使する(=解雇する)か、あるいは棄権する(=解雇しない)か、あなたの一存で決めることができます。

解雇した場合、この従業員は収入を失います。他の従業員も動揺するなどの影響があるかもしれませんし、解雇によって業務に支障がある可能性もあります。 解雇しなかった場合には、その意思決定によって、また別の影響があるでしょう。このどちらの結果を導いたとしても、その責任はあなたにあります。 なぜなら、どちらの結果を導くかを決めることができたのは(=解雇するかしないかを選べたのは)、あなたしかいなかったからです。

このように、どんな権限(権利、権力)にも、その行使した、または行使しなかったことの結果に対する責任が必ずついている、と考えることができます。

  • 責任を果たすためには、必要な権限がついている必要があること。
  • そして、権限を持ったなら、同時に責任もついてくるということ。

権限責任一致の原則 には、この両方の側面があるのです。

少し話が前後しますが、 "できることをやりきらずに辞職すること" が 責任 を果たしていないのは、「まだ他に残っている "できること" (=権限) についてくる分の 責任 が残っているためである」のように説明することができます。 権限 を放棄することは、 責任 を放棄することと等しいのです。

能力との関係は?

能力は、権限 の前提として必要な要素です。

なんらかの意思決定をするにあたって、十分な能力がなければ選択ができません。

なので、十分な能力がなければ、権限を持つことができず、従って責任を持つこともできない、ということになります。

能力の不足は、外部からの何らかのサポートによって補うことができます。

例えば、視力が低い人は、遠くのものを見る能力が低い人です。視力が低いと、例えば自動車を運転する際に、安全に運転する責任を負うことができないので、運転する権限を持てないことになります。 しかし、メガネなどの道具で補うことで、運転するに十分な能力を満たすことができます。

あるいは、他者に頼ることもできます。現代社会に暮らす人は、1人独力で生き抜くだけの能力を持っている人はほとんどいないはずです。これは、生存権を単独で行使できる能力がないということです。

例えば、食糧生産、衣料品生産、住環境構築・・・だけをとってみても、独力ですべて解決できた人はほとんどいないでしょう。しかし、どれも生存に欠かせない重要な要素です。

そのため、たくさんの他者の力を借りながら、能力の不足を補い合うことで、社会全体として生存権を行使できている、と捉えることができます。

他者を頼るとき、 本来は 権利 と 責任 が自分にあるものを、その一部を渡して委託します。頼られた側では、権限としてそれを請け負い、同時にその分の 責任 も引き受けることになります。

特殊な能力を持っていることによって生じる責任

特殊な能力を持っている場合、それ自体が責任につながることもあります。

例えば、4人で旅行に行って、レンタカーで移動したいとき。 運転免許を持っているメンバーが1人しかいなければ(この場合、 "運転" が特殊な能力です)、 この人に運転する(あるいは運転しない) という暗黙の権限が生じ、よって その 責任 が生じます。 運転するかしないか、どのように運転するか、を選択できるのは、その人しかいないからです。このとき、運転しない3人は、運転する1人に対して、権限と責任を暗黙的に委譲しているとみなせます。

資源を持っていることによって生じる責任

資源(リソース)も、能力と同様に、持っていることが、責任につながることがあります。

例えば、運転免許を持っている人が2人いたとしたとき、内1人が怪我や疲労など(活動資源の枯渇)により運転できない場合、体力がある1人に、運転する(あるいは運転しない) 暗黙の権限が生じ、よって 責任 が生じます。このとき、運転しない人は、運転する人に対して、権限と責任を暗黙的に委譲しているとみなせます。

責任を果たせなかったとき、どうなるか?

ちゃんと言うと、できることをやりきったなら、その時点で既に責任は果たしているはずなので、ここでいう「責任を果たせなかった」は、「できることをやりきった結果、期待される良い結果を出せなかった」という意味で扱います。

特に、お仕事をしているとよく起きることです。どんな職種でも共通すると思いますが、何らかの期待を受け、権限と責任の委託を受けて、そこから仕事が始まるわけですが、いつでも期待通りの結果が出せるとは限りません。私もこれまでたくさんの失敗をしてきました。

委託を受けた人は、失敗の責任すべてを一身に背負わなくてはいけないでしょうか? 私の答えは NO です。

委託を受けた人は、権限と責任を受け取っていますから、まずはその責任を確かに負っています。しかし、その結果は、委託を受けた人がすべて引き受けるわけではありません。基本的には、委託した人も一緒に引き受けることになります。

委託した人は、誰に何を委託するか、を決めたはずです。つまり、委託する相手と内容を決める権限を持っていて、それを行使したわけですから、その分の責任があるわけです。 別の人に委託していたら、別の結果が得られたかもしれない。委託せずに自分でやっていたら、別の結果が得られたかもしれない。でも、その相手に委託することを選択した、その責任です。

仕事によっては、委託を受けた人がさらに別の誰かに委託をする場合もあるでしょう。そのすべての関係の中で、これと同じ 権限 と 責任 のやりとりが発生していると考えられます。

これを全体としてみたとき、失敗の責任は、最終的にどこにあるのでしょうか。委託と受託によって関係する人全員の、各々の "自己責任" に返っていくことになります。1つの大きな仕事にかかる責任は、関係者各々の自己責任のほんの小さな一部の集合である、と捉えることもできます。

つまり、1つの失敗について、1人ですべてを背負うことはないわけです。大きい視野で捉えれば、その失敗の責任は全員で分担していることになるからです。こう考えると、失敗を恐れず、チャレンジできる気がしてきませんか?

ただし、このことが成立するのは、委託 を前提とする 権限 の場合だけです。 委託を伴わない 権力 の場合、委託する相手や内容を選択できない、 あるいは 委託された内容を引き受けるか断るか選択できないわけですから、 その責任を分担できません。

権力 を行使して誰かに任せた仕事が失敗したとき、その失敗の責任は任せた側にあります。

権力 を行使されて自分に不都合な決定を強行されたとき、 その責任は決めた側にあります。

つまり、すべての責任が権力者側に返ることになります。そして多くの場合、権力者側に実質的な責任能力はありません。責任だけを負った被支配者側は、ただただ "人のせいにする" ことしかできないことになってしまいます。

そうならないために、「権力を持たないこと」、そして「権力を持たせないこと」が重要だと思います。

具体的な例

以上の整理をふまえて、権限(権利と権力を含む) と、対応する責任の関係について、具体的な例について考えてみたいと思います。

医療サービスを受ける権利

医療サービスを受ける権利は、 日本では、 場合によって保険等の補助を受けながら、いくらかのお金を支払って買うことができる権利です。 一部の国や地域では、 基本的人権の一部とみなされ、無償で医療サービスを受けられるところがあるそうです。

医療サービスを受ける権利には、治癒する責任 が伴います。

医師は、その職業を選択したことによって、医療サービスを提供する権限を持っています。医師の責任は、知識や技術を習得し、適切な医療サービスを提供することです。しかし、患者が治癒することには責任を持ちません。

医師は、治る気のない患者 を治すことはできません。 いつ検査を受けるのかを決めるのも、医師ではなく患者自身です。検査を受けるのが遅れて、病気の発見が遅れたために、治療が難しい状況になることがありますが、それを避けることができたのは、医師ではなく患者自身のみです。従って、医師は治癒に対して責任を持つことができないわけです。

同じ理由で、適切な医療サービスを提供した結果、患者が亡くなったとしても、業務上過失致死や殺人などの罪に問われることはありません。治癒することに対して 責任 がないからです。

教育を受ける権利 と 教育を受けさせる義務

教育を受ける権利も、医療サービスを受ける権利と同様に、学習する、学ぶ責任は教育を受ける側にあります。教師には、適切な教育をする責任がありますが、学習成果について責任を負うことはできません。

教育を受ける権利は、当然ですが、どんな教育を受けるかを選ぶことも、教育を受けないという選択も含んでいます。趣味の習い事や、英会話教室や、ビジネス上の専門知識を学びに行く人もいますし、いまはネット上の教材で自主学習できるようなサービスもたくさん選択肢があります。そのどれを選ぶことも自由ですし、どれも選ばないこともできます。

大人の場合はそれで良いですが、子どもの教育については、少し違った前提があります。未就学児、小学生くらいの子どもには、学ぶ権利がありながらも、学ぶこと、あるいは学ばないことを選択するのに十分な能力がありません。それは、学んだ結果、または学ばなかった結果、どうなるのかをまだ理解できず、責任を負うこともできないということです。なので、保護者に、"教育を受けさせる義務" を課すことで、子どもの選択をサポートする責任を引き受けてもらう、という仕組みになっています。

しかしここで、保護者が受け持つ義務の解釈に注意が必要です。本来、教育を受ける権利は子ども自身にあり、これを正しく行使できるためのサポート役ですから、子どもが自分で教育を選択し、学ぶ責任を自ら負えるようになることが目的であるはずです。 "教育を受けさせる義務" を文字通りに受け取れば、無理やりにでも勉強させることが是であるという解釈もできそうに見えますが、主体はあくまで学習者(子ども)自身であることを確認する必要があるように思います。

参政権、投票権

投票権は、参政権のうちの1つです。日本では、成人に達したすべての国民が投票権を持つことになっています。投票する権利は、候補のうちの誰に投票するか、あるいは誰にも投票しないのか、を決めることができる権利で、投票した、あるいはしなかった結果に責任を持ちます。これは、大きくは参政権に対する責任ですから、単に選挙の結果ということにとどまらず、政治のあらゆる最終的な責任を意味します。

もし、投票しなかったとしても、政治の最終責任を持たなくてもよいことにはなりません。

このことは、実際に起きることと矛盾しません。誰に投票しても、投票しなくても、選挙の結果選ばれた代表者が行う政治活動の影響下に置かれることになるからです。

つまり、投票権を持った時点で、政治の最終責任は免れないということになります。従って、間違いのない選択をできるよう、"知る権利" などの権利を駆使し "やれる限りのこと" をやりきって投票に臨むその労力は、誰にとっても損をする投資にはならないでしょう。

自分が責任を持って一票を投じるにふさわしい候補がいなければ、立候補することもできます。これも参政権の一部であり、政治的責任を果たすためにできることの1つです。

参政権はすべての有権者と分担ですから、責任もすべての有権者で分担することになります。

独裁者の責任

歴史を見れば、独裁者のサンプルに事欠くことはありません。世界中に、たくさんの独裁者の伝説が残されています。

独裁者 といえば、乱暴で、凶悪で、とてもネガティブなイメージがあるように思いますが、歴史的に評価の高い人気のある独裁者も多くいます。クーデターを成功させて権力を掌握した独裁者、もともと独裁者の家系に生まれてその権力を引き継いだ独裁者、ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニのように選挙で選ばれた独裁者など、独裁的権力を持つに至った経緯も様々です。

すべての独裁者が、正しく善い政治ばかりをするなら問題にならないのでしょうが、過ちを犯し、たくさんの人々の生命や尊厳を傷つけることになった独裁者もたくさんいます。これがネガティブなイメージにつながっているのでしょう。

そして、人間とは、過ちを犯すものです。

独裁者とは、国や集団の重要事項を独断で勝手に決めてしまう人をいいます。独裁者の問題点は、権力が集中することにあります。権力の集中は、同時に責任の集中をも意味します。集中した権力が過ちを犯す時、その責任のすべてが独裁者1人に集中します。通常、特に集団の規模が大きくなるほど、たった1人の人間に、それほどの責任能力があるとは想定しにくいです。責任能力を超えた権力を持ってしまうことは、権限と責任の不一致の状態であり、これが様々な歪みを引き起こす原因になっていきます。

この問題を解決する方法としてあるのが民主主義です。民主主義が機能する社会では、自由と平等の原理が働いています。基本となる "自由の権利" は、各々が自分のことすべてについて自分で支配できるということです。この権利に対応する責任は、自分のことすべてについて責任を持つ "自己責任" です。そして、自由権と自己責任の範囲を互いに平等とすることで、メンバー同士の過剰な干渉を避け、権力の集中を防ごうという考え方です。

もしも、誰かが過ちを犯しかけても、社会が多様である限り、全員が全会一致で間違いを犯すということは起きにくいはずです。誰かが過ちに気付くことができれば、未然にブレーキをかけることができるでしょう。

戦場のジャーナリズム

戦場のジャーナリズムは、大変危険な仕事です。しばしば、ジャーナリストがテロリストに人質として捕らわれるなどの出来事があるときに、特に多くの人の関心を集めます。そして、そのたびに、自己責任論をめぐる論争が起こります。

私は以前、この問題について取り上げた記事を書きましたが、この中で「ジャーナリスト個人の自己責任にはできない」という見解を示しました。 しかし本稿では「自由権 に対応する責任は 自己責任である」とも書いています。 一見して矛盾するように思う方もいると思うので、 改めてこの問について、 権限責任一致の原則 の観点から説明してみたいと思います。

私たち一般の有権者には、政治に参加する権利と、政治の結果に対する最終責任があることは説明しました。政治的な責任を十分に果たすには、関連するさまざまな権利を行使する必要があります。知る権利 はその1つです。知る権利には、当然知る責任が付いてきます。

これらの権利と責任は、私たち有権者一人一人が持つ自由権と自己責任の範囲内にあります。

つまり、本来ならば、私たち有権者は各々の自己責任で、危険な紛争地域で起きている事実を確認する責任があります。それを知らなければ、外交や安全保障などに関する政治的な責任を果たせないからです。

しかし実際にはそれは不可能です。そこで、私たちに代わって取材する能力を持ち、職業選択によりその役割を買って出てくれた人、すなわち ジャーナリスト にその権利と責任の一部を渡し、委託することになります。

ジャーナリストは、有権者全員から少しずつの自己責任の一部を引き受けて、それを背負って戦地へ入るのです。 つまり、ジャーナリストが負っている自己責任とは、私たち有権者全員の自己責任にほかならない、と言えます。

もちろん、その中には、ジャーナリスト個人の責任も含まれています。職業選択の自由に対して、適切なジャーナリズムを提供する責任もあるでしょう。なので、もしテロリストの人質となって身代金要求に利用されたりするなら、それはミス(失敗)です。

しかし前述の通り、失敗 の 責任 も、委託と受託をしている全員の 自己責任 に返ります。つまり、私たち有権者全員で共同責任を負う必要があると考えられるわけです。

まとめ

権限責任一致の原則 はもともと、経営学者の アンリ・ファヨール という人が考えた 管理原則 の一部だそうです。 だから、関連する記事の多くが マネージャーや経営者のために書かれているのは、当然かも知れません。それを、本稿では、マネジメントや経営の範囲にとどまらず、権利、権力にも広く普遍的に適用できる原則として説明してみました。

主な要点を箇条書きにまとめてみます。

  • 権利 とは、自分が自分を支配すること。
  • 権限 とは、委託を受けて他者を支配すること。
  • 権力 とは、委託なしに他者を支配すること。 本当は NO なことを、無理やり YES に変えさせる力のこと。
  • 責任 とは、 結果を引き受けること。 誰かのせいにしないこと。 自分にできることをやりきる こと。
  • 責任 を果たすためには、必要な 権限(権利や権力を含む) が伴っている必要がある。
  • 権限(権利や権力を含む) を持ったなら、同時に 責任 もついてくる。
  • 能力 は、 権限(権利や権力を含む)の前提として必要になる要素。
  • 特殊な能力を持っていることが、暗黙の権限(権利や権力を含む)と、責任につながることがある。
  • 十分な資源を持っていることが、暗黙の権限(権利や権力を含む)と、責任につながることがある。
  • 成功しても失敗しても、結果の責任は、関係する委託者全員の自己責任に返る。全員で分担する。

権限責任一致の原則 は、 "持った 責任 とそれに対応する 権限"、 あるいは "持っている 権限 とそれについてくる 責任" が、一致している必要がある ことを示しています。 いくつかの例で見てきたとおり、 この原則は 権限 だけではなく、権利 や 権力 の一般にも当てはめられる ことが確認できたように思います。

記事中で挙げてきた以外の例を想定してみても、今のところ、例外(権限と責任が一致していないべき場合)はないように思います。ところが、実生活上の身近なところで、権限責任の不一致を見ることはなかなか珍しくもないように感じています。みなさんの周りではいかがでしょうか。

なんら権限があるわけでもないのに責任ばかりがやけに重かったり、なんら責任を負うわけでもないのに権限ばかりを要求してきたり・・・、自分の言動をあとから振り返っても、「あれ、なんかいまおかしいこと言ったかな?」と思うこともしばしば(自戒)。

権限と責任の不一致は、様々な問題の原因になります。身の回りの権限と責任の関係を改めて見直し、不一致を解消できれば、コミュニケーション上の問題をいくらか改善できるかも知れません。

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