公開日: 2019年05月26日(Sun)
経済的な格差が広がっていくことが問題とされます。これは、富の偏在、つまり おカネ持ちがどんどんおカネ持ちになっていき、貧困がより深刻な貧困となって広がっていくことです。
一方で、真面目に働き、多くの生活者に貢献した者に、より多くの見返りがあるのは当然だ、とも思えます。実際に、そのようにして、たくさんのモノやサービスが生まれ、私達の暮らしは便利に、安全に、豊かになりました。
おカネに総量がある以上、一部の貢献者にだけ見返りとして多くの収入があれば、その分だけ他の誰かのおカネが減るはずで、格差が広がることになります。どちらも当たり前のように納得してしまいますが、この2つの立場は対立していることになりそうです。
本稿では、経済格差拡大がなぜ問題なのか? それとも実は問題ではないのか? について考えたいと思います。
おカネは、現代社会のあらゆる活動に関わっています。私達の日常生活の根底を流れている基盤となっています。ゆえに、おカネの本質を問うことは難しく、文脈や立場によって様々な側面を見つけることができると思います。 ここではその1つの側面として、 数値化され可視化された権力の量 としての おカネ について考えます。
例えば、八百屋さんでニンジンを買う という場面を想定してみます。
お客さんは、八百屋さんに対して 1本 のニンジンを要求します。これに対して八百屋さんは、対価として 70円 を要求し、双方の合意があれば交換が成立します。これが普通の買い物です。
当たり前ですが、対価 0円 でニンジンを要求すれば、八百屋さんは NO というでしょう。もし八百屋さんが、ニンジンを渡したいと思っているなら、対価があろうとなかろうと、喜んで渡すはずです。つまり、本当はニンジンを渡したくないのです。 それが、おカネ を提示されたことで YES に変わったことになります。
以前別の記事で、権力を「本当は NO なことを、無理やり YES に変えさせる力」と定義しました。 本当は NO だった八百屋さんの意思が おカネ の力で YES に変わったわけですから、 おカネ は権力の定義に当てはまります。
八百屋さんは、 ニンジンを 70円分の権力と引き換えに手放しました。 次に八百屋さんは、その権力のうちの一部を行使して、次のニンジンを仕入れてくるでしょう。そして、また別の誰かが持っている 70円分の権力と引き換えに手放します。 このとき、差分が利益として手元に残ります。 利益は権力の蓄積です。 積もり積もって大きくなれば、やがて別の、より大きな権力として行使できるようになります。
こうした取り引きは、誰でも日常的にやっているはずです。誰しもが知らず知らずのうちに、権力を行使し、また別の場所では他者の権力に従って行動しているはずです。
ニンジン1本は小さな買い物ですから、権力と呼べば大袈裟に感じられるかも知れません。そして、取り引きが概ね対等であれば、別段問題ともならないでしょう。ヒトは助け合わなければ生きられない生き物です。経済は助け合いの場でもあるのです。
しかし、金額が大きくなっていったら、金額の差が開いていったらどうでしょうか。
最も身近に感じられやすいのが、人事査定ではないでしょうか。使用者と労働者との間の権力構造が、ここに現れます。
権力は NO を YES に変えさせる力ですから、 NO と言えない状況 を作り出すこともあります。 誰もやりたがらない面倒な仕事、汚い仕事、危険な仕事・・・そういう仕事もたくさんあって、誰かがやらなければいけません。
そこで上司は、人事査定を用います。 「この仕事を引き受けてくれたら、報酬をはずむよ」「断ったり上手くやれなかったら給料減っちゃうかもよ」 などと言います。おカネは生活基盤でもありますから、収入は上がらないまでも下がったりすれば生活そのものが脅かされます。住宅ローンが残ってたり、ちょっと無理して高いクルマを買ってたり、収入のない家族がいたり・・・、事情は様々ですが、家計収支がカツカツなほど、NOと言えない状況になっていきます。
当の上司も、そのまた上司から同じことを言われているかも知れません。このような権力の構造は、大きな組織のピラミッド構造の各層で働いていることでしょう。そうやって、大きな組織の支配構造は、おカネの力によって成立しているようです。
力を持った企業などの大きな団体が、大きな経済力を振りかざしたとき、どんなことが起きるでしょうか。
いろいろあると思いますが、例えば、人事査定と同じ関係が、発注元と下請け企業の間で起きることがあります(下請いじめ)。株式の 敵対的買収 によって、実質活動できない状態に追いやられるようなこともあります。
いずれも、おカネの力で、本当は NO なことに YES と言わざるを得ない状況が作られてしまいます。
メディアや広告も、経済力で制御することができます。 スポンサーはメディアや広告の表現に口をはさむことができます。メディアも広告制作も、スポンサーにとって不都合な表現はできないよう制限を受けることになります。
これは、メディアや広告に情報源を依存する一般の生活者に対しても影響力を持ちます。広告主が伝えたい良い情報だけが伝えられたりします。他にもっとよい選択肢があっても、それが埋もれて隠れてしまったり、本当は要らないものが欲しくなってしまったりします。「広告予算をちゃんと割けば、ちゃんと売れます」などと言われることがありますが、これが、「本来その商品を必要とする人に、正しく情報が届く」という意味なら素晴らしいことですが、 必ずしもそう正直に作用するとも限らないようです。
「要らないものが欲しくなる」と言われても、「そんなまさか」「自分は本当に欲しいものしか買ってませんけど」と思うかも知れませんが、実際にはそうと言い切るのは難しそうです。『スタンフォードの自分を変える教室』という本は、広告表現に流されず賢く消費することを指南します。広告がどんな方法で余計な消費を促しているか、具体事例を引用して解説してくれます。誰でも知っている有名企業の事例ばかりなので、ほとんどの人に心当たりがあるのではないかと思います。
メディアや広告が本当に伝えたいこととは違う内容を伝えなければならないことも、一般消費者が本当は要らないものをついつい買ってしまうのも、おカネの権力によって NO が YES に変えられた場面と捉えることができそうです。
ここまで見てきた通り、 おカネは 本当は NO なことを無理やり YES に変えさせる力、 すなわち 権力 と捉えることができます。そして、 富(おカネ)の偏在 は、実質的に 権力の偏在 を意味します。
民主主義が、平等な権力を前提とし、少数弱者の声を尊重するのを是とするならば、富の偏在は民主主義の実現にとって大きな障壁となるはずです。
実際、富の偏在は政治的な意思決定に少なからず影響しています。
地上波のニュースにも平気で登場する「組織票」という言葉、何かおかしいと思いませんか? すべての有権者が自由で平等な権利を持って投票に臨むならば、組織票なんていう概念は生まれないはず。だのに、当たり前のように認知されています。 組織票 が実態としてどのように形成されるのか私は詳しく知りませんが、根底には先に触れた人事査定のようなシステムが作用しているのではないかと思います。
政治的な意思決定に、広告が関与することもあります。
クウェート人少女 ナイラの証言 は、広告会社の仕掛けたフィクションによって湾岸戦争を支持する世論を形成した広告事例です。
先のアメリカ大統領選挙にも、SNSを駆使した新しい情報戦が展開されていた、というようなニュースもありました。
いずれの例も、実際に実行するには、普通の庶民のお小遣いの範囲では無理そうです。 経済力の大きい者は、政治的にも大きな影響力を持っていると言えるでしょう。
経済格差が大きくなるほど、民主主義はまともに機能しにくくなる、と考えられそうです。
だのに、未だに 権力が偏在 しているということは、民主主義以前の君主の時代から構造的に大して変わってないのかもしれません。君主主義が廃れて民主主義が広がってきた背景についてはここでは割愛しますが、経済格差がこの流れに対して障壁となるならば、やはり小さい方が良いのではないでしょうか。
しかし、格差ゼロになるまで小さくする必要はないように思います。 直近の差し迫った問題としては、貧困の是正。そして恒久的には、自分のことを他者が勝手に決めてしまう "権力" に対して、誰もが安心して NO と言える後ろ盾が保証される程度にまで小さくできればよいのではないか、と思います。
具体的には、誰もに十分な衣食住が保証され、誰もに十分な教育を受ける機会が保証され、医療も保障され・・・うーん、限りなくゼロに近くなりそうな気がしてきました。
以下、関連リンク。
公開日: 2019年05月26日(Sun)