公開日: 2019年10月22日(Tue)
「ノブレス・オブリージュ」。わたしがこの言葉を初めて知ったのは、たしか10年くらい前だったと思います。 そのときは、「私財を投げ打ち、見返りを求めず、見知らぬ他人のために貢献しようなんて、ちょっとカッコいいよね!」くらいの軽い感じに思っていました。あるいは、偽善や売名行為のように、斜に構えた感じに捉えてもいたかもしれません。
ところが、いま改めて考えてみると、そんなゆるふわ正義感みたいな雰囲気とは全く違う、とても重い責任を帯びたアイデアであることが理解できるようになりました。
今回は、 ノブレス・オブリージュ という考え方について、改めて捉え直してみたいと思います。
この横文字「ノブレス・オブリージュ」とはどういう言葉なのか、まずはストレートに辞書を引くところから始めたいと思います。
Wikipediaによれば、この語はフランス語で noblesse oblige、英語では noble obligation と言うそうです。
英語で noble は「貴族」、obligation は「義務」なので、「貴族の義務」のような直訳になります。
「貴族」とは、身分の違いがはっきりしていて政治的なチカラに直結していた時代にあった階級の1つで、特別な家柄に生まれ、特別な資産や権力を持った人々をいいます。つまり、特権階級を指しています。
後ろ半分は「義務」です。「義務」って、重い言葉ですよね。10年前のわたしはなんとなく「やらなくてもいいけど、やるとカッコいいこと」程度に思っていたわけですが、この「義務」という言葉は、「やらなきゃいけないこと」のような強いニュアンスを持っています。
と、ここまでストレートな直訳をストレートに解釈したところで、ノブレス・オブリージュは 特権についてくる義務や責任 に関することを言っているんだ、ということがわかってくると思います。
しかし、見返りを求めない無償のボランティア活動を「義務=やらなければならないこと」とすることには、なんか違和感がありますよね。 どういうこと??
その答は、 「noble = 貴族」が持つ「特権」の意味を考えていくと、この「義務」という言葉の重さが理解できてきます。
その前提となるのは、権限責任一致の原則という考え方です。以前、別の記事で、この原則について書きました。(参照: pxt | 権限責任一致の原則は、権利にも権力にも適用できる、というお話)
権限(権利、権力を含む)には、それに対応する責任が必ず付いてくるという、普遍的でシンプルな原則です。
この原則に気がつけば、ノブレス・オブリージュはストンと腹に落ちてきます。 特権を持った貴族たちは、その特別な権限に付いてくる特別な責任を負っているんだよ(=義務)ということなのです。
もしも特権者が、その責任を果たさなかったらどうなるでしょうか? それについて、わたしたちは歴史を通じて学ぶことができます。暴君やら暗君やら、世の中がめちゃめちゃになった時代の独裁者たちの所業がそれです。こうした負の経験を踏まえて、権力が集中している状態は危険だということを学び、人類は民主主義の時代に入っていくことになりました。
ところが、世界の主要な国々がみな民主主義的なプロセスで運営されている現代においてもなお、ノブレス・オブリージュというメッセージが現役で訴えかけられ続けているのは、不思議に思えます。 なんだか、自由と民主主義の社会は未だ始まったばかりで、実現にはまだまだ到達していないということ、貴族と王様の時代を卒業しきれていないということを表明しているかのようです。
現代の社会において、「貴族」とは、誰のことを指しているのでしょうか?
以前に書いたまた別の記事で、おカネは可視化された権力量であることを説明しました。 (参照: pxt | 経済格差は、なぜ小さい方が良いのか? おカネとは、数値化され可視化された権力量)
現代の経済社会において、おカネをたくさん持っているということは、その分だけ強い特権を持っていることと等しい意味があるといえます。
大きなおカネを動かせば、たくさんの人が動きます。大きなおカネを持った人が、そのおカネを何にどう使うかによって、その事業に関わる人々や社会全体に対して大きな影響力を持ちます。従って、おカネを動かす力を持った特権者には、その影響力と同じだけの責任が伴うのです。
もし、億万長者が、そのおカネの力で善からぬことを行えば、社会に善くない影響を及ぼします。ここに責任が生じます。 そのおカネで助けられる命があるとき、そこにおカネを供給しないことを選ぶならば、その命は失われます。ここにも責任が生じます。
このように、おカネという権力と、それに伴う責任は、古い君主の時代のそれと同様の構造のまま、今もなお顕在であると考えられるのです。
これが、ノブレス・オブリージュ(貴族の義務)が、現代にも現役のメッセージであり続けていることの背景ではないでしょうか。
ノブレス・オブリージュを初めて知ったとき、素晴らしい言葉だと直感しましたし、今もそう思います。 しかし、この言葉が素晴らしい言葉であり続ける限りは、自由も平等も民主主義も、まだまだ手の届かない遠いところにあるということ、富の偏在、一部の偏った特権者によって運営される "君主の社会" を卒業できていないということの証。ここまで考え至り、うーーん、複雑な思いです。
ちなみに、おカネも権力も量的で相対的な概念ですから、「すべての人はおカネ持ちと貧乏人のどちらかに分けられる」というようなパキッと割り切れる性格のものではありません。 世界のほとんどすべての人に、自分よりも裕福な人と、自分よりも貧しい人がいます。 自分が持っている所得や資産の量が、世界人工77億人の中でどの程度の水準にあるのか、その資産を何に使うこと(または使わないこと)によって、社会にどんな影響があるのかを検討してみると面白いと思います。
その影響力の大きさが、まさに あなたが負っている「ノブレス・オブリージュ」なのです。
以下、関連リンク。
公開日: 2019年10月22日(Tue)