公開日: 2007年10月31日(Wed)
人を見た目で判断するなとよくいうが、まったくだ。それどころか、目の前に見える事柄が真実であるということすら、誰にも証明できない。
目の前に見える映像は網膜が感知して視神経を経由して認識される。音や言葉、誰かの肌の温もりも、殴られた時の痛みだって、およそ同じ仕組みだ。網膜や視神経が信頼できる情報を届けてくれていると言い切れるだろうか? 私が時々仕事をさぼるのと同様に、視神経も真面目に働いていないかも知れない。あるいは、私を騙そうと、他の感覚器官と結託して情報操作しているかも知れない。私の目には天の川を飛ぶ白鳥に見えているものが、他の誰かには、砂漠に埋もれかけた十字架に見えているかも知れない。この白い筐体の携帯電話が、あなたの目には、悪趣味な金色の湯呑み茶碗に見えているかも知れない。そもそも、あなたや他の誰かがそこに存在しているということも、私の五感が作り出した偽の事実かも知れない。それを証明することも、確認することもできないのだ。
事実、私が過去にあることを言ったのか言わなかったのかということについて、何度となく激しい夫婦喧嘩を繰り返してきた。過去に共有していたはずの、一意な事実を、どちらかが正しく認識できておらず、どちらが正しいのか証明する手段もない。しかも、どちらも正しくない可能性だってある。自身の感覚でさえ、こんなにあやふやで、信用に足るものではない。
さらに人工的な網膜とか視神経だったり、脳から直接操作できる義手、義足なんかが登場しだせば、いよいよ自分自身の五感に対する疑念が真実味を増してくる。
『我思う、故に我在り』。このように身の回りのあらゆる物事が疑わしい状況の中に、確実なものを求めた結果、「それを求めて思考しているという事だけは、確実だろう。だから、私は確かに存在している」と言うような結論に達したのが、デカルトさんのこの言葉だという。
思考を根拠に存在を確認された「我」以外に、確実に存在していると言えるものはないのか? 「我」以外のもの(自身の肉体を含む)は、その存在すら確認できないのか?
デカルトさん以降、この話がどう展開されていったのか、私は知らない(まだ読んでないから)。けど、このままでは主観的世界の大半は真っ暗闇で(さながらマトリックスみたい)、夢も希望も信じられなくなってしまいそうだ。
「我」以外に、確実な真実を見つけだすことはできないのか。少なくても、「我」は思考することができるのだから、思考して思考して、そして信じればいいのじゃないか。というか、信じるしかないじゃん。信じたならば、それを真実として認定するしかない。確信を持ったなら、それが正しいにせよ、間違っているにせよ、どちらにしてもそれは唯一の真実なのだ。だって他に考えられないんだから。
まずは、自分の目や耳、指先の感覚を信じ、そこから伝えられる情報を信じること。そして、その先に、あなたや他の誰かが存在していることを感じ、信じること。そうやってどんどん信じていけば、真実の世界がどんどん広がっていく。
だけど、「信じる」と一口に言うのは簡単だが、実際にひとつの結論を疑いなく信じるというのは大変に難しい。望むと望まずとに関わらず、矛盾を示す様々な情報がたくさん勝手に飛び込んでくるからだ。「疑いなく」信じるためには、その根拠に矛盾があってはいけない。
昔の西洋人は、大地は平らで、海を越えてずーっと行くと、巨大な崖と滝になっていて、さらに進めば果てしなく流れ落ちていくと、信じていた。これも当時、圧倒的大多数の人にとって、紛れもない、疑いようのない真実だった。
それまで唯一の結論で、みんなが確信していた真実にも、矛盾が見つかればその真実は揺らぐ。真実が揺らいだら、矛盾する情報同士をぶつけて議論を重ね、その矛盾を解消しなくては真の真実に行き着くことはできない。コペルニクスやガリレオ・ガリレイが天動説を主張して、証拠を見つけて、みんながそれを信じるようになったら、それまでの天動説という真実は上書きされ、地動説が新しい真実になった。
真実は変わることもあり、人によって一致しないこともある。これはしようがない。発見とか、発明とか、芸術とか、結構いろいろなものが、実はこうして塗り替えられた新しい真実の形なのかもしれないし、クリエイティブとは、新しい真実を見つけ出す作業のことを言うのかもしれない。
宇宙が永遠に膨張すると信じればそれは真実となるし、宇宙はやがて収縮してオメガへ還ると信じれば、それが真実となる。どちらだとしても、疑いなく信じたならば、それが真実なのだ。現時点では、その根拠に矛盾を感じていなくはないが、今は信じられるならそれでいいんだ。
「我」以外の物事を確実であると信じるためには、その根拠として足るだけの材料が必要だ。もし、他者の持ち出した根拠と矛盾するならば、それが真実であることを共通認識とするために、議論しなければならない。そのためには、自分も相手も上回るほどたくさんの知識が必要で、たくさん勉強しなければならない。
勉強に勉強を重ねて、あくることなく小さな可能性をも追い詰め、積み上げれば積み上げるほど、真の真実に着実に近づけるし、みんなで共有できる領域も増えていくのだろう。
だから、ちゃんと勉強しなければいけないのだな。
デカルトの「我思う、故に我在り」の話「我思う、故に我在り。我ならざるは、すなわち在らざるナリか?」の続き。
「我思う、故に我在り」は、我以外の全ては不確実なものだと位置づけた。人間が認知している世界は、五感から得た情報を信用することで成り立っている。その...
( PXT255; - 日記? - 記事を開く)
公開日: 2007年10月31日(Wed)