公開日: 2007年11月06日(Tue)
毛利元就が一代で大きな繁栄を築く元手となった石見銀山は、当時、世界の銀の産出量の1/3を占めていたと、「その時歴史が動いた」で言ってた(だいぶ前だけど・・・)。日本史を動かすほどの影響力を持っていた石見銀山も、今は世界遺産になって大事に保存されている。
日本史を動かした銀山の銀も、無限ではなかった。
いま、僕らは大量のガスや石油を燃やしているが、これらの化石燃料もあと20年とか30年とか先には枯渇するかもしれないという。すでに、北極だか南極だかの地中に眠る大量にあるだろう化石燃料の覇権をめぐって、近隣諸国の攻防は始まっているらしいが、これだって無限に埋まっているわけではない。
化石燃料が尽きたとき、今のまま、その時を迎えたら、僕らは生きていけるかというと、どうだろう。料理、できるかしら。電気、つくかしら。スーパーやコンビニに食料は並ぶかしら。服だって、まともに着られなくなるかもしれない。
そう考えると、僕らは「生きる」という、ごく普通に当たり前のそれだけのために、大量の化石燃料を燃やしているんだな。化石燃料なんて、化石というくらいなんだから、使うより速く作りだすことはできない。仮に高速に大量に化石燃料を生産できる技術があったとしても、CO2過多の問題が深刻になるだけだ。
いまさら化石燃料を燃やさない頃の生活に戻るというのは、大変大変大変なことだ。だからといって、このまま行けば、僕の寿命が尽きる前に、化石燃料の寿命が尽きる。
科学技術は、化石燃料消費をゼロにすることを目指している。だけど、僕ら一般の化石燃料消費者も、化石燃料消費をゼロにすることはできないせよ、ゼロに近づけていく意識を持って、努力をしてなければ、ほとんど意味がない。
「生きるために寿命を縮める」なんてナンセンスだ。科学技術の発展と、消費者の意識は、ともに歩み寄りながら、「寿命を縮めずに生きる」道を拓いていかなければならない。もう、戻れないんだから。
公開日: 2007年11月06日(Tue)