光と影の物事認識

目の前にはいろんな物が見える。例えば、それはタバコの箱だとしよう。私が目の前にある物体を「タバコの箱」であると認識できるのは、光が当たっているからだ。しかし、これを認識するためには、それだけでは足りない。光と一緒に、影が見えて初めて「タバコの箱」であることがわかる。

光がなければ、画面は完全に真っ黒で塗りつぶされ、影がなく光に満ち溢れた世界は、全面が真っ白で視覚は失われる。その、光と影の両方が存在し、調和した状態でこそ、コントラストが現れ、距離や色彩が生まれる。

重要なのは、それは一様ではないということ。光と影の量のバランスや、光が当たる角度、逆に、それを見る側の角度によって、観察対象はまったく違った姿を見せる。そのうちのどれも全てが、同じ「タバコの箱」であるにも関わらず。

これは、物であれ、事であれ、同じことだ。輝ける美しい側面が存在する一方で、角度を変えれば、暗く醜い暗黒面が見えてくる。その物や事の実体を正しく把握するためには、光と影の両方を見なくてはならない。醜い暗黒面から目をそらしてはならないのだ。

例えばの話、少し前、政府のナントカさんの、「女性は子供を産む機械」発言というのが大問題になった。ここでこんな話を持ち出せば、方々から非難されそうだが、これも暗黒面のひとつだと言えないか。

確かに、この表現は非道にも聞こえる。しかし、これが非道に聞こえる背景には、機械ではない、人間らしい男性の肖像がある。このような男性像と同じ画面に、機械と化した女性を描いたことによる不自然さが、女性差別的な非道感に繋がっている。

仮に、「子供を産む機械」というタイトルの絵画の背景に、「銀鉱石を掘る機械(すなわち男性)」とか、「敵方のロボットを破壊する機械(すなわち男性)」とか、「お金を製造する機械(すなわち男性)」といった、冷たい金属質の男性たちが描かれていたらどうだろう。同じタッチ、同じトーンで統一された画面には、違和感があるだろうか。それはそれで自然にまとまった感じがしないだろうか。

「子供を産む機械」と「機械ではない、人間らしい男性」との間にあった違和感は、双方に当てられた光の角度、あるいは、主観の角度が一致しないにもかかわらず、同じ画面上にレイアウトされたがゆえに生じるものだ。1つの主観的視点から、見えるはずのない相反する側面が同じ1画面に描かれた、ピカソのようなキュビズムの絵画に感じる違和感と同種であろう。しかし、どちらも、「女性」と「男性」に対する様々な表現のうちの、それぞれ1つでしかない。

「しとやか」「かわいい」「おちゃめ」「豊穣」「献身的」「わがまま」「身勝手」「地図が読めない」「おしゃべり」、(なんかいい言葉が思いつかないけど)よくも悪くも女性を形容する角度はたくさんある。「子供を産む機械」も、このうちのひとつであって、どの角度から見ても、それは確かに、女性という同じひとつの実体を表現している。そして、これらは必ずしも単体で女性差別的な表現ではなく、男性にもおよそ同じような、よくも悪くも様々な形容詞が当てられる。

「子供を産む機械」発言に関して、私は率直にこんな風に考えたわけだが、「子供を産む機械」でウェブを検索してみると、これについて全く違う見解がたくさん見つかる。これも、「子供を産む機械発言」というひとつの実体について、いろんな角度から光が当たり、いろんな方向へ影が伸びた結果だ。

おそらくどんな人でも、様々な社会に同時に属していて、ひとつの同じ物や事を、様々な立場から観察、検証する必要にたびたび迫られる。その対象の実体を正しく把握しなければ、その時に正しい判断をすることは難しいだろうが、そのためには、キレイな輝ける側面だけを見ていては常に不十分である。汚くても、醜くても、そういう暗黒面から目をそらしては、正しく把握したとは言えないのだ。

『敵を知り己を知れば、百戦危うからず』。大きくても、小さくても、どんなことでも、まずは正しく把握していなければ、正しく判断できない。物事を正しく把握することは、何事よりも先んじてなされるべき重要なプロセスである。光も影も上手に使って、間違いのない判断をしたいものだ。


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コヤナギ トモヤ

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