公開日: 2011年07月23日(Sat)
今回はちょっぴり、自分のことについて書いてみようと思う。
細かいことはほとんど覚えてないが、確か小学校の高学年くらいの頃だったと思う。ぼくは先生について絵を習ってたことがある。
先生は、山の麓の森のほとりの、古くてボロボロの家に住んでいて、電気もガスもなく、小さい畑を耕し、山からキノコや山菜を採ってきて食べるような生活をしている、仙人様のような人だった。どこでか、ぼくの親と知り合ったようで、親の紹介で先生のもとへ通うことになった。
週に一度、自転車で自宅から一時間ほどかけて、仙人の家へ足を運んだ。
先生の専門は油絵で、抽象画家だったみたいだが、ぼくは小学生だし、習ったのは水彩だった。
いろんなモチーフで何枚も描いたはずだが、ほとんど覚えてない。だけど、特に印象に残った中に、球根の絵がある。たしか、チューリップの球根だ。
先生はぼくに、絶対に境界線を描かせなかった。下絵は描かないし、鉛筆も使わないで、いきなり画面に色を載せる。それから、球根が育った方向に向って筆を運ばさせた。ちょうど球根の下の根が生える辺りから、上へ向って。根を描くときは、下へ向って。球根が生まれ、生きた軌跡をたどるように。
「よく見て。境界線なんか見えるかい? ないだろう。境界線などない。面と面があるだけ。面と面が、接しているだけだ。」
当時小学生のぼくには「ふーん」てくらいの感じで、言われた通りに描いてみた、というくらいだったが、いま改めて思い返すと、これはぼくにとって、すごい発見だったと思う。
一個のまとまった物体に見えるものも、いくつもの色や面の集合で、内側に接点をたくさん持っている。それと接する、例えば背景も色で、面で、接している。どの面とどの面をグループにしてもよくて、離してもよくて、それはその人それぞれの捉え方次第。
境界線があるのかないのかはどっちでもいいし、どちらでもある。しかしとにかく、先生には境界線が見えないのだ。それは、先生が見た「世界」。
絵画から、画家自身の世界の捉え方をなんとなく知ることができる。絵を教わってみると、それがもっとよくわかる。
ぼくは「境界線がある世界」と「境界線がない世界」を知り、そのどちらか、あるいは両方を選択する自由を得た。
やがて飽きっぽい小学生は、自転車で片道一時間の道のりが面倒くさくなり、他にたくさんの楽しいことができ、そして次第に足を運ばなくなった。後から聞いたが、先生はぼくの親にこんな風に言ったらしい。「あの子は大丈夫。絵を描かなくたってちゃんと食って行ける子だから。」
それからだいぶ後、高校生のときに、美大受験のためのアトリエ的なところに入れられ、受験用の絵の描き方を習い始めた。石膏の円柱とか、円錐とか、球とか、リンゴとかマルスとかを描かされたが、一向につまんないので、すぐに行かなくなって、ギターばっかり弾いていた。(かあちゃんごめん)
それっきり、ほとんど絵を描かなくなってしまった。今は先生の言った通り、コンピュータを使ってエンジニアっぽいことをして、絵を描かずに食わせていただいているわけだけど、それだけでよかったのかと、時々思い出したかのように迷子になる。
そのままでよいのかもしれないし、他の答えがあるかもしれないし、一時は横道や休憩所にそれてみるのもいいかもしれない。
世界は常に一様の姿はしていない。
自分は世界をどう捉えてきたのか、視点を少し変えたときに、世界はどのように変わるのか、他に目が覚めるような未知の捉え方はないのか。
もう一度、探してみようと思う。
たぶん、何度でも探すだろうと思う。
先生、絵が描きたいです。
公開日: 2011年07月23日(Sat)