公開日: 2007年12月06日(Thu)
最近、完璧主義者だと勘違いされた。「そんな風に見えているのかぁ~」と、不思議に思ったくらいだが、せっかくの機会なので、完璧主義について考えてみようと思う。
結論からすると、(こんな記事を書くくらいだから)私は自身を完璧主義者だとは思っていないし、完璧主義には否定的だ。その理由は次の通り。
完璧主義者は、必ず次の何れかに該当する。
まず、人間である以上、完璧ではありえない、という考え方が根底にある。我々が愛する人間らしさは、不完全であることによって生じるものだと思っている。だから、「完璧である」という状態には、何かしらの矛盾があるはずだ。
そのひとつには、「視野が狭い」こと。
多角的に物事を見れば不完全な箇所がたくさん見つかったとしても、対象とする範囲を極端に狭めれば、一見完璧に見えることもある。例えば、ガソリンを大量に燃やして、他の何者よりもパワフルに、超高速に走行できる自動車があったとする。ねじの緩みひとつなく、設計も完璧、ドライバのテクニックもコンディションも申し分ない。これを、サーキットという限られた範囲で見れば、それは確かに完璧に見える。しかし、環境性能や安全性、日常的実用性という範囲まで広げてみれば、決して完璧と呼べる代物ではない。(ただし、範囲を制限して完璧を実現することが必要な仕事もあったりするようだ。医療関係とか、飛行機とか)
そうでなければ、「理想が低い」のかも知れない。
多角的に見て優れているか否かに関わらず、重要な要件を見落とした状態であれば、完璧はあり得る。ただし、これは、「目指した理想が、完璧と呼ぶにはほど遠い穴だらけの理想だった」という状態であり、この状態で完璧を実現しても、それは無知である本人がそうと信じ込んでいるだけの話であって、他の評価者から高い評価を得ることはできないだろう。だってスカスカなんだから。
これらの見落としなく、本当の意味で完璧な状態など、実現できるだろうか。おそらく人類はまだそこへ到達できたことなどないだろう。であれば、完璧を望む完璧主義者は、自己の理想を実現することができない。それが3つ目の「理想を実現できず、満たされない」だ。これは完璧主義者自身を満足させることはできないし、プライドはズタボロ、自尊心もへったくれもない。それでも本当の完璧にこだわり続ければ、身がもたない。
私は、完璧主義をこのように捉えている。そうと知っていて完璧に拘っても、幸せにはなれない。もちろん完璧を目指すのは構わないし、おそらく私もそうしているだろうが、完璧でない(不完全である)ことを安易に否定するのはナンセンスだ。たくさんある課題をひとつずつ解決して、完璧に近づけば、それでいい。実際、このブログの過去記事を自分で読み返してみても、突っ込みどころはたくさんあって、不完全な主張がたくさん吐き出されている。
仕事にせよ、子供にせよ、自分自身にせよ、不完全だから面白い。不完全だからこそ、工夫したり成長する余地があるわけだし、不完全なものを、一歩(たったの一歩)完璧な状態に近づけたと実感することに快感を得るわけだ。
そして、面白いのは、「完璧であるためには、妥協する必要がある場合がある」という矛盾。「完璧とは、妥協しないことだ」という人もいるが、全体の整合性に配慮した本当の完璧を実現するためには、妥協は必要な要素だったりする。こうなると、「完璧とは一体どういうことか?」という根本から考え直さなければならない。
「完璧」だって不完全じゃないか。だから面白いんじゃないか。
公開日: 2007年12月06日(Thu)