終わりを意識する

2008年2月26日放送のニッポンの教養、FILE029:「人生を振りかえる 夜」。京大の宗教学者カール・ベッカー先生のお話。

爆問太田さんも言っているように、やっぱり印象的なのは、最後の最後。

太田曰く:ただ、最後に、先生が時間を気にしだしたでしょ。それは分かりやすかったね、確かに。

の辺り。

ベッカー先生曰く:この収録の時間を気にしだしたら、1分1分の会話が重要に感じてくるでしょ。人生にも終わりがあるんだ、石油にも終わりがあるんだ、自然にも終わりがあるんだ、ということを意識すれば、時間の使い方、石油の使い方、自然の使い方に気づきが生まれる。その有限性に気づいた時点で、生き方が変わってくる。生き方がより懸命になり、一瞬たりとも無駄にしたくない、一瞬一瞬を満喫して、忘れられないものにしたい、心に刻みたい、と思うようになる。

と(録画から耳コピして多少編集してあります)。これに大変共感したわけです。

しかし、過去の記事でも、選択肢に溺れるとか通勤時間を上手く使え辺りで1人1日24時間という有限性についてちょびっと触れたりもしたが、私が時間を意識するときには、時に焦りのような感覚が前面に出てしまうことがあって、それはそれで良くないな、と思う。

「死ぬ」ということは昔からよく考え込んだテーマで、自分が死ぬときのいいイメージはなんとなくできている。死ぬときのゴールイメージがあるから、それを実現するために、20代はこんな感じ、30代でこんなことをして、40代になったら・・・、みたいな、おぼろげなイメージがあるわけなのだけど、(30歳手前という時期もあってか)それが「イメージ通りに軌道に乗ってないな」と感じるときがあって、そうすると焦りが出てくる。(これは、人生とか死とか、そんなスケールのデカイ話ばかりじゃなくて、日常的なイベントの全てに当てはまるのだけど)

そうなってくると、「そのスケジューリングでゴールイメージに到達できるのか?」とか、「そもそもゴールイメージが間違ってたりして」と心配になって、自分の死のイメージをあえてぶっ壊して再構築したくなったりする。

こうなってしまうと、ベッカー先生が言うような、「生き方がより懸命になり」とは真逆に行ってしまうほどの失望感とか挫折感みたいなものに襲われて、モチベーションがドップリ下がってしまったりするのです。

私のような人にとっては、時間は意識しすぎず、意識しなさすぎず、絶妙な線を維持していかないと、結果として幸せな死は迎えられないのかな、とか、あるいは、そういう挫折感みたいなのを適度に抱えながら、見直しながらやってかないとダメなのかな、とか、この放送を見ながら、そんなことを感じていたわけです。


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コヤナギ トモヤ

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