ニッポンの教育

2007/09/28 放送の、「爆笑問題のニッポンの教養」スペシャルの、録画を見た。慶応義塾大学の学生、教授陣と、2030年の世界について議論を展開するような内容になっていたが、いろいろ考えるところが多い。

総じて感じたのは、「教育」に対する考え方について。なんだか、学者のみなさんはプライドが高くて、「教育」を難しく考えすぎていて、大事なところがヌケてるような雰囲気を感じた。

単純に、大学というところはそういうところなのだ、ということなのかも知れないし、大学には出来上がったオトナしか来ないという前提なのかもしれないが、「教育」を考える上で、「ハイレベルな学問、知識を身につけさせること」に寄り過ぎている気がする。

今日、情報は凄まじく速くなり、技術革新、学問、知識の向上はめまぐるしい。しかし、人間そのもののハードウェアは、そうそう早い進化はしない。「ハイレベル」の上限は日を追うごとに高くなっていき、人間はその情報量に追いつかなくてはならない。

私は、その上限を極めることに注力するがあまり、基礎を整えることを忘れているのではないか、と感じている。

歴史の教科書を例にとる。過去の歴史は、時間と共に蓄積されてきたものであって、過去を変更できない限り、「歴史」の分量は時間と共に増加する一方である。しかし、子供が大人になるまでの間に、歴史を学べる時間は変わらない。するとどうなるかといえば、歴史の一部を間引いて、9年あるいは12年という時間に収まるように調整される。何者かの主観によって、重要性が低いと判断された歴史上の事実は、後の世に伝えられにくくなっていくという図式ができて、時間を重ねるたびに、捨てられていく事実は増えていく。

しかし、現在の人類の知恵や経験は、そうして捨てられていく1秒1秒の積み重ねで成り立ってきているはずだ。物事のルーツを正しく伝えていかなければ、やがてその物事の成り立ちや由来を忘れ、同じ過ちを繰り返すことにも繋がるだろう。

これと似たことが、家庭を含めたニッポンの教育の現場全体で起きているのではないかと思うのだ。頭でっかちで、足元が揺らいでるゾ。

高い技術や、最先端の学問を学ぶのは大切だ。国際的な競争力を維持するにも、それは必要なのかも知れない。しかし、最先端は、必ず原始的な基礎の積み重ね上に構築されている。初心を忘れて、最先端を論じてはならない。

幸せってどういうものかとか、人と人とのコミュニケーションのあり方、肉声と表情による情報の交わし方、喜怒哀楽、親、兄弟、子供、ご先祖様、組織の中での自分の役割、自分のルーツと、生まれてきた理由、そして、これから先、生きていく理由とは?

こういう基本的で根本的な問題は、あるいはハイレベルな学問によって解決されるのかもしれない。しかし、ハイレベルな学問を身に着けなければ、果たして解決できない問題なのだろうか。私は逆だと考える。基本的な、根本的な問題を、過去の先人たちが解決したからこそ、現代の我々は存在する。単に、忘れてしまっただけではないのか。それらを解決しない、忘れた状態、あるいは勘違いして歪めて捉えているままで、ハイレベルな学問など学んだって無意味だし、もっと悪ければ、学問は危険な凶器として機能することにも繋がり得る。

私も「最近の若いもんは」とか言い出す歳になったのかも知れないが、近頃の子供や、親もそうだが、一昔前はあり得なかった、幼い主張や発想をする。これがしばしば問題となり、ニュース番組などでよく耳にするようになった。親の世代の精神が成熟していないのかも知れず、それによって、その子供たちにどんな影響が出ているのか。今一度立ち止まって、しっかり考えていかなきゃいけないのではないか。良くも悪くも、古き時代や習慣、伝統、しきたり···、見つめなおさなければならないのではないか。その意味を、我らは理解できているだろうか。

私が大事にしたいのは、まず「心」、これが大前提だ。最先端の技術は、想像を絶する巨大な力を持っていて、想像以上に複雑難解である。心に十分な準備がなければ、うまく使いこなすことはできず、最先端の技術によって逆に危険にさらされることになるだろう。

私も親だ。我が子と、我が子の世代に、何を伝えなければならないか。この問題に真剣に向き合わなければならない。それを通して、自分もまた、成長できるのだと思う。


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コヤナギ トモヤ

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