公開日: 2008年04月02日(Wed)
またまた大好きなテレビ番組「爆問学問」より。2008年3月25日放送の京大スペシャル「爆笑問題×京大 独創力!」の、後半で語られたテーマ「独創力は育むことができるか?」について、考えてみようと思う。
壇上の教授陣の間では、「自力で育むことを助ける環境を用意して提供する」「放置する」といった方法で、『育むことができる』、あるいは、「育むことはできず、独創的であるところを見せることで伝播する」と話している。そもそも「独創的であることはよいことなの?」とかいう議論もあった。
僕の考えは結論から言うとこうだ。『育むことはできないが、起こりやすい状態を作ることはできる』。
そもそも独創性とは何かと考える。またこれ「自己相似的組織論」と、これに対する過去記事「カオスとコスモス」に基づくのだが、独創性はカオスから生まれるもので、つまり、「数打ちゃ当たる」的に偶然的に発生するものだと思う。
「カオスとコスモス」では、「カオスが持つ予測不可能性が偶然的な発見に繋がる」と言っているが、これこそが独創性であるということ。「自己相似的組織論」に載せた図で言うと、右図1に示した部分が独創性に当たる。つまり、独創性をカオス研究が取り扱うような対象だと位置づける。
独創性の内容はもちろん予測不可能なわけだから、それを再現するためには無限の精度の初期設定が必要で、つまり、意図的計画的に育むことはできない。というか、できないと言うべきなほど難しい。
『お猿さんの群れの中で、それぞれに様々な工夫をしたオスたちがケンカして、勝ち残ったオスの子孫だけが残っていく』という話の、この「様々な工夫」という独創性について考えると、独創的な大発見や大発明の裏には、評価されずに淘汰された沢山の独創性があって、オスが10人いたら、後に残る独創性は1つで、淘汰されて日の目を見なかった独創性が9つあるはずだ。放送の中で中辻憲夫教授が「定説を否定する(とんでもないことを言い出す)と、間違っていることが多い」というのは、これと同じ理屈で通る。そしてしかし、後に残った1つも、淘汰された9つも、等しく独創的であると言える。(だだし、もしかしたら、ここでいう独創性の中には、それまで蓄積されてきた伝統的秩序も含まれているかも知れない。新しい工夫をした人が9人いて、伝統的秩序で戦おうとした人が1人いたなら、伝統的秩序だって立派に独創的と言えるじゃないか)
この独創性がカオスから生まれるとするならば、要するに、秩序をなくして、混沌とした世界を押し広げれば、独創的な革命が起こる確率は上がるわけで、これが、『独創性の起こりやすい状態』なのではないかと考えるわけだ。
だから、このように考えれば、社会は独創性を求め過ぎてはいけない。世の中の全員が独創的な発想や行動をしだしたら、あらゆる社会が秩序を失ってグチャグチャになってしまうし、せっかく生み出した独創的な成果は行き先を失ってしまう。やはり、カオスとコスモスのバランスが大事なのであって、大学に通う学生の全てが独創的発見や発明を目指す必要はないし、そんなのはナンセンスである。独創的な新しい理屈を定着させる、コスモスの役割を担うために勉強しに大学へ通ったってよくて、社会はそういう人をもものすごく必要としているはずだ。
宇宙が混沌で満たされていたころに起きた、宇宙初にして最大の独創的大事件がビッグバンであって、ビッグバンが起きた時点で、宇宙初の秩序が生まれた。その後もいろいろな独創的な事象が起きて、その都度新しい秩序が生まれてきた。新しい秩序が生まれるたびに、もともとあったビッグバン以前の宇宙に満たされていた混沌の世界が狭くなっていっているわけで、同様に、科学が進歩して、秩序立った学問の系が蓄積されればされるほど、混沌の領域は狭くなり、独創性の発生する余地が少なくなっていく。
つまり例えば、昔の学者が、「無知の知」だったり、「我思う、ゆえに我あり」だったりといったことに行き着いたということを、これらを知らない現代の誰かが同じ結論に行き着く可能性は、日常的な普通の生活の中にも十分なヒント(きっかけ)があって、再現し得る独創性だと思うが、しかし、それを再現したとしても、現代に於いてそれは既出の概念であって、独創的とは捉えられない、というように、実際に「独創性の発生する余地が少なくなっている」と実感できる。日常生活の中には、偶然的に発見され得る独創的な、つまり混沌とした領域がすでにかなり少なくなっているわけで、巨額のコストをかけて作った最新鋭の研究設備を使える一握りの研究者という立場であって初めて偶然発見でき得るくらいのところまで、学問は進歩した、つまり、偶然的に何かを発見し得る人口が減っていっているということだ。
これはすごく自然なことだと思うし、それでいいのだとも思う。
だから、伝統的秩序を守る保守的な立場をとることは、例えばアインシュタインのような独創的な大発見をするよりも劣っていることでは決してなくて、アインシュタインが独創的であるために必要な要素でもあったはずだ。
自分がどちらの人間なのか、どちらに向いているのか、どちらの役割に就いた方が自分の価値を発揮できるのか、それを意識すること。それから、柄にもないような無理をしないこと。
そうすれば、まぁ、それなりにあるべきバランスが自動的に取られていくような感じになるんじゃないだろうか。
ちなみに僕自身は、どちらかといえば、コスモスの中では生きていけない人間、カオスの世界の住人だと思っている。そうである限り、独創的過ぎて異端扱いされ、苛め抜かれることになるかも知れない1/10人になり得るリスクと、淘汰されて消えてしまう9/10人のうちの1人であるかも知れないというリスクとの両方を抱えた、そういう役割だということは、覚悟しなければならない。
公開日: 2008年04月02日(Wed)