社交辞令に価値アリ?

齢まもなく30にして、友人の結婚式に招待される機会が増えてきた。

結婚式の招待状を受けると、必ず返信用ハガキが同封されていて、決まった作法で返事をしたためる。と、オトナの世界では決まっているらしい。「御出席」と「御欠席」というメニューが記載されていて、どちらかにマルをつけ、もう一方を二重線で打ち消す。このとき、選択したほうの「御」の字も、二重線で打ち消す。そして、住所と氏名を書いた後、「おめでとうございます」とか「喜んで出席させていただきます」などのお祝いの言葉を添える。これも、Googleさんに聞けば例文が山ほど出てきて、たいていの場合はコピペ作文になる。

このやり取りも一種のコミュニケーションだが、ほぼ完璧に定型化され、多くの場合、無表情な内容になりがちだ。余計な手続きが多く、しかして伝えたい内容は、マルかバツかの二択。おめでたいのは言わずもがな当然だし、仮にめでたいと思わない相手にでも、めでたいと書くのだから表現は変わらない。

と、ずっとそう思ってきた。自分が結婚したときも、ゲストには申し訳ないが、そう思っていた。つまり、僕はなぜこんな回りくどいことをするのか、その意味が理解できていない。

だけどいま、なんとなく引っかかるものを感じている。

同様の例で、サラリーマンが着る背広にネクタイにワイシャツというスタイルも、僕には意味が解らない。別に他人のファッションをどうこういうつもりはないし、興味もないが、夏とか暑そうだ。夏に出歩く営業マンがスーツを着ることで暑いならば、それをやめてしまえば、空調にかかるコストも減り、限りあるエネルギーを無駄に消費することも減り、そしてエアコンが動かなくなれば、都会の屋外は今よりもいくらか涼しくなりそうに見えるし、温暖化が危惧される地球の空気もちょっとでも冷めそうじゃないか。そのスタイルに特に意味がないというのであれば、みんなでやめてしまった方が幸せではないのか、と思ってしまう。

このサラリーマンの背広は、今もまったくの無駄だと思っているが、結婚式の招待状に見る社交辞令的なコミュニケーションについては、そこにある何か大事な意味を見落としているのではないかと、そういう気持ちになってきた。

つまり、このマルかバツかを聞きたいためのやり取りを、ラジオボタンと決定ボタンの2クリックの操作に置き換えてしまったときに、何か、とても重要な何かを失くしてしまうのではないかという、そういう予感。

その、「何か」が、実際に何なのかはわからないけれども、なんだか引っかかる感覚。

この返信用ハガキから何かを受け取っているのか、言わなくても分かるような至極当然のことをあえて明示的に書くことに意味があるのか、それとも、定型化された社交辞令では表現できない何かを、今回の新郎新婦には特別に感じていて、それを表現したいと思っているのか、あるいは、マウスとキーボードではない、ハガキとペンというデバイスが何らかの形で作用しているのか・・・。

何かが引っかかっていることは確かだが、すぐに結論はでそうにもないので、この気持ちをここにメモすることにした。次回、めでたい誰かの招待状に返事を書くときに、もう一度注意深く考えてみようと思う。


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コヤナギ トモヤ

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