公開日: 2008年04月24日(Thu)
「あなたは騙されている」とか、「あなたは洗脳されている」と、誰かに指摘されたら、それをどのように受け止めればいいのだろう。意外と難しいシーンである。
この問いは、「我思う、ゆえに我あり」とまで言って、「確かに存在しているのは我のみで、我以外の物事はすべて疑わしい」としておきながら、今度は我を信じることを禁じられた上で何が正しいのか判断するという、大変神経質な作業を、「あなた」に要求している。
「騙されている」という指摘がされる前には、疑わしい情報Aがあり、「あなた」はそれを疑っていなかったという文脈がある。ところが「騙されている」、すなわち、「情報Aは誤りである」という、矛盾する情報Bを得たことによって、「あなた」は、情報Aと情報Bの間の矛盾を解決し、正しい理解を決めなければならなくなった。そして、情報Bは「騙されている」といって騙そうとしている悪の手口かも知れないから、そのまま信用していい情報とは言えず、その意味で情報Aと情報Bの信頼度、信憑性は等しい。
だから、どちらを信用していいかなんてわかるわけがない。なぜなら、「騙されている」という指摘があった時点から、最も信用できないのは「情報Aを信用してきた自分自身」になっているんだから。
そういう意味で「自分は騙されていたと知る」のは結構キケンなことだ。これまで自身が経験してきた時間軸とそこに積み上げた歴史、知識体系、価値観といった、「自分の世界」を否定し、破壊し、再構築する必要が発生する。課題によって大小あるだろうが、たいていの場合、否定するべきは「自分の世界」の内のごくごく一部だろうに、間違って全否定してしまいそうにもなったりする。それが怖いもんだから、ついつい昨日までの自分が積み上げてきた情報Aという立場を擁護してしまって、公平な判断ができなかったりもする。
さまざまな、なるべく第三者的立場から物事を言えそうな人の意見や情報を多く仕入れて、参考にし、公平性を欠かず、自己を全否定しないように気をつけながら、慎重に検討しないといけない。ムズカシい~。
なんでこんなことを言い出したのかといえば、つい最近、そんな指摘を受けたからです。ネタは何のことはない、タバコ。禁煙です。
だから、天動説から地動説になったようなインパクトはないし、「あたいは、おまえの本当の母さんじゃないんだよ」と告白されたような、そんなに神経質な話でもない。些細な価値転換が起きただけの話。
そもそもタバコには「百害あって一利なし」といわれて疑う余地はなく、しかも、やめたいという希望も動機もある。タバコが何かの役に立ったという実感を得た経験は一度もないし、タバコの価値を認めているわけでもない。まぁ、確かに逆の言い訳はたくさん言ったけど・・・。
情報Aにはまったく歩がないことは、とっくにわかっていたはずだ。あとは、自分にとって単に都合がいい方を選択して、採用して、信用すればいい。
僕は、(職業柄か)どちらかといえば自分を疑うことには慣れている方だと思っていたけど、やっぱり自分を信じていたいんだなぁ、とつくづく思った(たとえ「自分」が外部の何者かによって作りあげられた像だったとしても)。他人の指摘がきっかけだと、身構えて、壁を作って臨んでしまう。自分で気づく前に他人に指摘される気持ちの、なんと惨めなことか。自分の内のことなのに。他人が侵入することができない領域なはずなのに。
情報Bは、決断しなくていいというし、我慢もしなくていいという。それから、タバコを吸っていたときの自分の気持ちを忘れるな、とも言った。だから、この惨めな気持ちをここにメモることにします。(情報Bの意図とはちょっと違うかも知れないけど。)
公開日: 2008年04月24日(Thu)