公開日: 2008年05月19日(Mon)
常識とは、知っていて当たり前の知識のことを言う。常識人たちは、常識を知らない人を侮辱して、常識を知らないことを決定的に劣ることだと思っている節があるが、どうだろうか。単に常識をよく知っているただの常識人であることが、必ずしも優れたことだとはいえまい。
常識を、知識を空洞化することだと言ってみよう。つまり、常識人の多くは、常識がなぜ常識なのかを知らない。
常識は便利だ。本質的に物事を理解していなくても、常識のとおりに行動すれば、およそ大きな失敗することはないだろうし、全体の調和や規律を乱すこともない。ほとんどの場合、期待した通りの結果を得ることができる。本来、最初の誰かがその結論に至るまでに重ねた苦労は計り知れず、後の人が同じ理解をするためにも、計り知れないお勉強が必要であるはずなのに、結論だけを取り出して常識化することで、それだけを知っていれば誰でも同じように利用できるようになる。それを積み重ねることで、常識人たちは、少ない努力と少ない知識で、大変幅広い領域で活動できるようになるわけだ。
つまり、知識の空洞化である。その中身(理由や、プロセス、経験、教訓など、重要な文脈)を全部削除してしまって、結論だけを残し、物事をシンプルに理解すること。われわれは、常識があるおかげで、この複雑怪奇な大宇宙の物理法則の支配下にいながら、世界をこれほどまでシンプルに捉えることができているわけだ。
だから逆に、常識にとらわれるのはキケンなことだともいえる。結論しか理解していない状態は、きわめて応用力に乏しい。ちょっとでも常識から外れたインプットを受けると、常識人たちはそれに対応することができない。時には、うその情報に簡単に流されてしまうこともある。
常識化された事柄の中には、すごく無駄だったり、非効率的だったり、あるいは害をなすこともある。歴史ある常識ほど、逆に、実は現代にマッチしていない場合もあり得る。常識人は普通、こうした問題になかなか気づかない。常識の中身を知らないから、特に矛盾して見えないからだ。「非核三原則」や「戦争放棄」という結論が常識化されて残るのはいいが、広島や長崎が受けたダメージを忘れてしまったら、その過ちをもう一度繰り返すことになりかねない。
常識も常識人も必要だ。しかし、常識を疑う人もまた、必要である。
常識を疑い、定期的に見つめなおし、その意味や本質を思い出す、あるいは記録する人。また時に、必要に応じて破壊し、組み立てなおす人。こういう役割を持った人を、非常識人と呼ぼう。
非常識人は重要な役割を持っている。問題ある常識を見つけて、破壊して、新しい常識を提唱し、普及させること。しかし、得てして非常識人は圧倒的少数派であって、主張してもなかなか受け入れられず、苦労する。地動説を唱えれば異端扱いされて罪を問われたりするし、クールビズとか言い出す人がいても、なかなか一般常識になってはいない(個人的にはイイと思うんだけど)。ここで非常識人が苦労することは仕方がないことだし、そう簡単に常識が塗り替えられるべきではないとも思う。
だけど、常識の利便性とキケン性、非常識人の役割をみんなが理解した上で、上手にバランスを取っていかないとダメなのではないかと思う。
この話は、過去記事「カオスとコスモス」に関係するかも知れません。
公開日: 2008年05月19日(Mon)