言語は通信のために経由する一時的な情報形式

僕の友人に、英語がペラペラじゃない人がいます。だけどその人は、帰国子女。小学校低学年くらいまで、アメリカで育ったそうです。だけど今は英語はほとんど話せません。だけど当時は、同級生はみなアメリカ人で、当然英語圏の子供たちで、その友人も英語で話していたはず。つまりペラペラだったはず。

なぜ、今はペラペラじゃなくなってしまったのかといえば、日本に帰ってきて英語を使う機会がなくなってしまったからでしょうが、面白いのは当時の会話の記憶。白人や黒人や、いわゆるアメリカ人な周囲の子供たちと、日本語で会話しているという風に記憶しているそうです。そんなはずはないのに。

言葉は、人から人へメッセージを伝えるときに使われます。その言葉の一つが日本語であり、英語であり、世界に沢山ある全ての自然言語が、このうちの一つです。しかし、伝えたいメッセージは、最初から言葉なわけではありません。なんと呼べばよいかわかりませんが、ここでは「気持ち」と呼ぶことにします。「気持ち」と「言葉」は形式が異なるということです。

本来、気持ちが気持ちのままで相手に伝えられれば、言語は必要ないのですが、それが不可能だったので、気持ちを言語に変換して、相手に伝えようと試みます。そして、言葉を受け取った方は、共通の言語で送られたメッセージを、"自分の気持ち形式"に逆変換し、それで初めて相手のメッセージを理解できるというわけです。


つまり、伝えたい「気持ち」が言語の形式をとるのは、一時的な状態です。言語の状態は、通信のために都合がいいので、一時的にその形式に変換してやりとりされている。だから発信者も受信者も、送受信した言葉そのものは記憶していなくて、記憶に残るのは、元の「気持ち」の状態の情報だけ。

それが、友人の記憶が「アメリカ人の子供と日本語で会話している」になってしまった理由。その記憶に自然言語が含まれていなかった、気持ちだけを記憶していたから、こういう現象が起きたのではないでしょうか。

当時記憶した気持ちを読み出す(思い出す)ために、頭の中で言語にもう一度変換しているというわけです。もしもそうだとしたら、記憶の中でアメリカ人の子供たちが話している日本語は、「現在の自分が知っている日本語」(当時の自分の言葉ではない)で変換されているはずです。

言葉は便利ですが、メッセージとして完全には伝わりません。非可逆変換方式です。発信者の「気持ち」が「言葉」に変換されるときに、もともとあったはずのかなりの情報が欠落してしまうでしょうし、その「言葉」を受け取った受信者が「相手の気持ち」に逆変換(復元)するときに、また情報が欠落したり、元の情報(発信者のオリジナルの「気持ち」)とは違う情報に復元してしまうことも多々あります。(これが「誤解」のもと)

気をつけていないと、「言葉を伝えた」ということを「気持ちを伝えた」と等価であるとついつい錯覚してしまいますが、言葉は必ずしも信用できるとは限らないものだということを意識して、言葉と他の方法とを組み合わせて、より誤解の少ない情報伝達を心がけなければいけない、と思います。


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コヤナギ トモヤ

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