老いたるを敬い、幼きを宝とす

近頃、やたらと「持続可能性」にこだわりたがるのは、僕も三十路に差し掛かり、安定を求めるようになったからかもしれない。

自分や家庭の生活を安定させるためには、自分が属する社会、つまり、会社とか日本とかが安定している必要がある。

儒教の流れなのかどうかはよく知らないが、おじいちゃんやおばあちゃんを敬い(敬老)、子供を宝とする道徳があった。この仕組みは、古くから社会の持続可能性の一端を担ってきたのではないかと想像する。

今日ではおよそ20歳から60歳前後までの、働き盛りの中間層。この人達が、子供たちとお年寄りを支える。これは、別段偉いことでもなく、献身的なことでもなく、当たり前のことだ。なぜ当たり前のことなのか。恩が循環するからだ。

中間層が老人を敬うのは、自分が幼かった頃にお世話になった恩があるから。子供を大事にするのは、やがて成長した子供たちが、老いた自分を支えるから。

上にも下にも、どちらに対しても、中間層は「責任」を負っている。ライフサイクルが巡っても、古い中間層は現役を退いて隠居し、新しい中間層がその役目を引き継ぐ。この循環は永久に持続することができたはずだ。

昨今、個人主義や実力主義が浸透したことや、技術の急速な発展に伴って「先輩」が存在しない新しい職業や業界がたくさん出現したこともあり、敬老とか子供は宝とかという意識が薄らいではいないか。

  • 昔は、近所にカミナリ親父がいて、よその子でも構わず叱ったもんだ。今では電車や飛行機で子供が騒げば、単に迷惑がってぶつくさ言うだけで、叱ってくれる大人は少ない。というか、ほとんどいない。
  • 先輩のいない新しい職場で一からやってきた若い世代は、何でも自力でやってきたと勘違いし、パソコンを使えない年輩の世代を安易に無能扱いしてはいないだろうか。
  • 学校の教師にゲンコツもくれさせないようにしてしまって、子供達は果たして恩師を得ることができるのか。

大人になりきれない中途半端な大人達。社会的無責任。放任主義を装った放置プレイ。僕にしても、決して他人事ではない。怠慢だ。こうした現状が、かつて実現していた社会の持続可能性の環の一部を破壊しているような気がしてならない。この怠慢は、やがて自らの首を絞めることに繋がる。「今、子供達に何を伝えるべきか」という問題は、僕らの老後の生活に大きく影響するだろう。

個人主義や実力主義は間違っていないと思う。僕はむしろ賛成派。だけど、新しい文化や技術の導入に際しては、古くなった物事を捨ててしまう前にもう一度確認しなければならない。それによって、失われてしまう価値はないだろうか?新しい何かに置換した時に、古い物の価値だけは継承しなければならない。どうしてもそれを継承することができない場合でも、少なくても、その失うもの(リスク)の重大さは理解していたい。

やや話がそれたが、「老いたるを敬い、幼きを宝とす」。結婚しない人や子供を作らない夫婦も増えているらしいが、だからといって子育ての責任がないというのは間違いだ。自分の子供を育てる主たる責任は親にある。社会の次世代を育てる責任は社会にある。社会人として社会に属する限り、社会の子供を育てる責任を他人に押し付けるのは無責任というものではなかろうか。自分に子供がいないとしても、自分が年老いたとき、今の、他の誰かの子供達とは、決して無縁ではいられない。彼らが支える社会で、余生を過ごすことになるのだから。


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コヤナギ トモヤ

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