公開日: 2018年10月27日(Sat)
シリアで拘束されていたジャーナリストの安田純平さんが無事開放されたというニュースがありました。 2015年には、同じくジャーナリストの後藤健二さんが殺害された事件もありました。
このようなニュースが流れるたびに、自己責任だろうという議論が持ち上がります。
今回は、戦場のジャーナリズムという危険を伴う仕事と、責任の在り処について考えます。
先に結論をいうと、これを自己責任にすることはできないと思うわけですが、その理由について、「もしも自己責任だったらどうなるか」と仮定してみるところから考えを進めていきたいと思います。
ジャーナリズムが自己責任である、としたとき、知る権利も自己責任であることを受け入れる必要があります。
ジャーナリズムをジャーナリストの自己責任とすることは、私たちがジャーナリズムに依存しないことを選択するのと同じです。それは、私たちが知る権利を行使するために、直接現地に行って自分の足と目で事実を確認しなければいけない、という意味です。
当然そんなことはできません。
日本の主権者である国民は、日本の政治的な意思決定の最終責任者です。その責任を全うするために、知る権利の行使は必要不可欠です。 つまり、私たちには、知る責任があるということです。
戦場は、安全保障上の現場最前線です。そこで起きている事実を知らずに、アメリカの基地問題や外交上の諸問題、自衛隊の是非、憲法9条改正など、安全保障を扱うような議論は当然できません。このことは、一般の国民にとってもそうですし、政府にとっても同じはずです。
全有権者が現場に赴くことはできないので、ジャーナリストという職業の人たちに依存することになります。彼らが情報を持ち帰らなければ、知る責任を果たせず、政治的な責任も果たせないのです。
というわけで、ジャーナリズムは、私たちが持つ政治的責任に直結していることがわかります。
私たち政治の主権者は、政治的責任を果たすために、知る責任を負い、政府は知る権利を保証しなければなりません。 そんななか、知らせるという重要な役割を背負って現地に赴くジャーナリストのその行為を、「彼らは勝手に行きました」とは言えないはずです。
従って、ジャーナリスト個人の自己責任ではなく、 民主主義全体の政治的責任である、ということになると思います。
以上が本題に対する私の答えになるのですが、では、各々のその責任をどのように果たしていくべきか? というと・・・、なかなか答え難い別の問題です。
安易に身代金を支払えば、テロリスト側の拉致行為をエスカレートさせることになりかねないし、資金を提供することにもなります。 かといって、無視すればジャーナリストの生命を保証できません。 そもそもジャーナリズムが民主主義全体の政治的責任にかかるなら、政府主導で武装した護衛団付きの視察団を派遣するなども考えられそうですが、自衛隊の派遣と同じ問題があり簡単に結論できません。 そればかりか、世界中でたくさんのプロパガンダの事例が知られているとおり、政府が嘘をつくこともあります。それを監視するために、情報源は複数確保する必要もあるでしょう。民間の報道機関や個人ジャーナリズムからの多角的な情報が必要になりそうです。
とかく、簡単に答えを出せない難問であることは間違いないですが、同時に、誰しもが無関係でいられない重要な問題でもある、ということは言えるのではないでしょうか。
公開日: 2018年10月27日(Sat)