我は無個性なもんだな。

デジャヴって、リアルタイムに入ってきている情報が、記憶に格納されるタイミングと、意識が認識するタイミングとがズレて、意識が認識したときに既に記憶に格納し終わっている状態になり、思い出したような気になる現象らしい。たぶん、脳の回路がちょっと間違った繋がり方をすると起きるんだろう。

脳みそまで僕にうそをつくということだ。

めまいがしたとき、視界には銀色のボツボツが無数に見える。実際にはそんなボツボツは存在しないだろうに、見える。たぶん、自分の視覚がうそをついている。

他人がしゃべった言葉を、別の言葉に聞き間違えることがある。これを空耳というが、僕の聴覚か言語野が情報を改竄しているというわけだ。

自分にくっついているこうした情報器官や、脳みそでさえ、時々信用できない情報を僕に伝える。

前フリが長かったが、また『我思う、ゆえに我あり』のお話。"我" は目や耳など周辺機器からもたらされる情報を信用することで、世界との接点を得ている。

"我" って、よくよく考えると、すごーくなんにもない、小さい概念だ。目も耳も鼻も口も何も、肉体を持たないんだから。目や耳など周辺機器がなければ、"我" はそれ単体では成立できない。というより、"我" は "何者でもない何か" に過ぎない。"我" を "我" たらしめているのは、"我" ではなく、"周辺機器" だ。

他人は僕の "我" を直接認識することはできなくて、周辺機器を介して得られた情報からそれを想像できるだけだ。だから、周辺機器をして、それを僕の個性として識別しているわけだ。だから、周辺機器を取り替えたり、改変したりすると、まったく別人に感じられることもある。

個性は周辺機器に宿る。"我" とは無個性な存在だ。

僕の周辺の環境や、接点のある他人だって周辺機器だろう。ならば、家族や友人や、所属する学校や会社や国家のような社会、身なりや持ち物なども含めた周辺の要素すべてが、僕の個性を構成しているはずじゃないか。
僕が僕でいられるのも、皆様方あってのことでございます。

・・・と、書きながら気づいたのだけど、"我" って世界に1つしかないんだな。他人の "我" なんて認識できようがないので、1つの主観世界に "我" は1つしか存在できないことになる。常にオンリー・ワンだ。

個性っていうのは類似品が沢山あるなかである1つを特定するための印のことだから、オンリー・ワンなのであれば必要ない。

"我" が周辺機器を通じてのみ外界と通信できるなら、接点となる周辺機器のほうが個性を持つというのは至極自然なことかもしれない。

(コンピュータでいうと、MACアドレスと似ているな。)


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コヤナギ トモヤ

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