公開日: 2007年11月09日(Fri)
『ウソをツクのは悪いこと』と教わった。結果としてこれは正しい道徳だと思うが、厳密には間違っていて、『ウソがバレるのは悪いこと』というのが正しい。なぜなら、ウソによって人が不幸になるのは、ついたときではなくて、バレたときだからだ。
例えば、
太郎、次郎、三郎くんという3人の兄弟と、お父さん、お母さんからなる5人の家族がいるとする。三郎くんは今塾に行ってていない。お父さんは仕事、お母さんもこれから出かけなければならない。
お母さんは出かける前に太郎くんを呼び、お小遣いを300円渡して「お小遣いね。3人で分けなさい。」と言った。太郎は次郎に「もらったお小遣いが150円だから、これ、次郎の分ね。」と、50円手渡す。ここで太郎はウソをついた。もらったお小遣いは、150円ではなくて、実際には300円だ。次郎は実際の金額を知らないが、"お小遣いを貰った"ということは聞いていたはずなので、太郎はナイショにしたのではなく、ウソをついた。やがて塾から帰ってきた三郎は、お小遣いをもらった事実すら知らないので、彼にはナイショにしておいた。
この時点で、太郎は既にウソを付いていて、次郎と三郎をだまして利益を得ている。お母さんも、『3人に100円ずつわたった』と思っているので、事実とは異なり、やはりだまされている被害者の1人だ。しかし、当事者4人の中で、まだ不幸になった者はいない。それどころか、利益を得た者(太郎)もいる。
このまま物語が終われば、登場人物5人全員の総合的な効果は、プラスとなり、これは『みんなのためにウソはつくべし』、という教訓を含んだ話になる。しかし、このまま終われるわけはない。
その日の夕食、家族5人で食卓についた。
お母さんは三郎に、「今日のお小遣いで何を買ったの?」と聞くと、三郎は「え、お小遣いって何?」と聞き返す。次郎は、「今日50円貰ったでしょ。忘れたの?」と指摘すると、「あら、100円なハズだけど」とお母さん。
この時点で、初めて太郎のウソはバレた。その瞬間、三郎は自分の知らないところで太郎と次郎が利益を得ていたことに腹を立て、次郎は本来自分が受け取るハズだった配当を太郎に不正操作されていたことに腹を立て、お母さんは自分が投資した資金が正しい投資先まで到達していなかったことに腹を立てることになった。そればかりか、事件に直接関与しなかったお父さんも、太郎の不誠実を叱り付けるために時間と労働を費やすはめになり、そして太郎自身は、4人の家族からの信頼を著しく傷つけることになった。
ウソをついた段階で、全体としてプラスであったハズのGNPは一気に大暴落し、利益を得た者はひとりもいなくなった。これでめでたく『ウソはつくべからず』という正しい教訓を含む物語として、終わることができる。
つまり、ウソによって人が不幸になるのは、ついたときではなくて、バレたときであり、『ウソがバレるのは悪いこと』となるわけだ。であれば、仮に絶対にバレない完全犯罪ができるのであれば、ウソは全体を幸せにすることができる(場合がある)と言えるのである。
しかし、通常、どんな小さなウソであれ、完全犯罪なんてフィクションの世界の話である。どんなに用意周到に組み上げられたウソや騙りも、たいていはバレるように、世の中できている。年金問題だって結局今になってバレたじゃないか。
だから、結局何が言いたいのかというと、つまりは『ウソをツクのは悪いこと』だということだ。
まわりくどいか。
公開日: 2007年11月09日(Fri)