自己相似的組織論

組織論というと、なにやら小難しく、私には縁遠い世界の話に聞こえるが、人として人の世に生きるからには、必ずいろんな形で組織に属していることになる。私は特にその分野に広い見識があったり、専門的に学んできたわけではないが、自分自身のルーツを必死で探すうちに行き着いた私なりの「組織」に対する考え方を紹介したいと思う。

この考え方は、結果として、自分が属する社会、会社とは何か、親、兄弟達と自分とは何か、家庭や育児をどう捉えるか、その中で、自分自身がどうあるべきかといったポリシーを決める指針となり、そして、「生きる」ということの最も大きな目的にもなっている。

自分探しの旅の記録

自分は何のために生まれ、なぜ生き続けるのか? 自分のルーツとは? 思春期にこのような果てしない自問を重ねた人は少なくないのではないかと想像する。自分のルーツは、実は見えやすいところにあった。紛れもなくお母さんのおなかだ。では、お母さんのルーツはと考えると、これはおばあちゃんのおなかだ。それでは、おばあちゃんのルーツは・・・と追っていけばキリがない。ご先祖様を代々たどることになる。こうして、私の「自分探しの旅」は、まず、過去へのタイムトラベルから始まった。

人類のご先祖様はお猿さんのような動物だったらしく、さらに古くはネズミのような動物だったらしく、さらにその昔は海から陸へ上がってきたお魚類だったとも聞く。そもそも、「生命が発生した」というイベントが大昔にあったわけだから、「最初に発生した生命」は、あらゆる生命のルーツと言えるのではないか。

ここで早くも出た「私のルーツは最初に発生した生命である」という結論。しかし、これでは意味が分からないし、役に立たない。そして、「自分探しの旅」は、生命の進化をたどり、今度は未来へと向かうことになる。

当時、学校では、生命の最小単位は細胞であると教わった。しかし、「最初に発生した生命」は細胞の形をしておらず、細胞が登場するまでにもひとつ、ドラマがあったらしい。
当初、核とミトコンドリアは、それぞれ別の個であった。しかも、こともあろうに、天敵同士だったと聞いた。ところがあるとき突然、核とミトコンドリアは和解し、融合して、細胞となったそうだ。

これは、(NHKか何かの)テレビでサイエンス系特集番組を見た記憶だが、いまになって改めて調べてみると、細胞内共生説のことを言った番組だったのかもしれない。当時、私がその内容を正しく理解できていたのかどうかはアヤシイところだが、この「融合して」というところに、「組織」と「進化」の本質を見た気がした。

現在では、ヒト(例えば私)の体は、沢山の種類の、沢山の細胞から構成される。しかし、核とミトコンドリアが融合したという大昔の生物は単細胞。それが、複数の細胞で1つの集合を作るようになり、また、違う性格を持った集合同士がさらに集合して、少し大きな集合となっていく。

さらに進化の先をたどれば、熾烈な生存競争の中、細胞の集合がいくつもの役割を分担して、その構造はどんどん複雑になっていった。さらに、賢い種は複数の個体で集まって群を作り、集団で狩りをしたり、天敵から身を守った。その群もどんどん複雑化し、村ができ、国ができ、国は国際社会を形成した。そして現在、人類は、その進化の旅路にある。おそらくこの先に起こるイベントは、人類の統合、地球という天体が1つの個となり、太陽系、銀河系、そして、私の知る限り、その最も大きな生命の単位は、宇宙。進化の終着地点は、宇宙の統一である。

この、進化の流れを見ると、小さい個が集まって、大きい個を構成するという図式が、各段階で見られる。私は、これがすなわち「組織」なのだと理解した。「自分探しの旅」という当初の謎に対して、「自分は宇宙の構成要素の一つであり、自分自身の成長は、最後には宇宙の進化に貢献する」という一つの壮大な結論にめでたく達した。自分一人の努力は、小さい。小さいが、無ではなく、微力ながら宇宙を多少マシにしている。自分は進化するために生きるのだと。

そして、この旅の結果得られた副産物が、自己相似的組織論だった。

自分の「役割」を知るべし

個が集まって組織を作るからには、動機、理由がある。それは、自分一人でいるよりも、みんなで結託した方が競争力が増すからだ。事実、自然界においても、賢い種ほど群を作る。しかし、同じ能力、性格の個が単にたくさん集まっただけでは、たいした競争力向上は期待できない。お互いの弱点をうまく補完しあい、強さを助長しあう形での協力体制が理想的だ。それは、体組織でも群でも村落でも会社でも同じこと。

ということは、組織のなかでうまく振る舞うためには、そのなかでの自分の役割を把握するということが、必要不可欠である。

核と細胞、村人と村、国と国際社会といったそれぞれの段階で、小さい組織が集まって大きな組織を成す際に、自己を組織したモデルを模倣する。「自己」という組織は、紛れもなく成功例だからだ。これを繰り返すことによって自己相似的な組織の階層構造が積み上げられるわけだが、この法則が真ならば、自己よりも上位の組織に属する場合の自己の役割を知るためのヒントは、自己を組織する下位の組織構造との比較の中に見出せるはずである。

「男性」と「女性」の役割分担

役割分担の例として、まず男と女の関係について触れたい。

そもそも、なぜヒトには男と女があるのか? これも偶然の産物ではなく、ちゃんとした理由がある。結論から言うと、「効率のよい進化」がその目的である。性別は、進化そのものを目的として確立された、大変優れた組織構造だった。実際、男と女の役割を明確に守った種ほど、高度な進化を遂げている。逆に、男と女の区別がない種というと、カタツムリやナメクジやミミズなどが思い当たるが、進化が進んでいるとはいい難い。では、男と女という仕組みが、なぜ効率的進化に寄与したのか、どのように効率的進化を実現したのか、それぞれの役割から考えていきたい。

誤解してほしくないので先に断っておくが、これから先の内容は男女を差別する見解ではない。男女を区別することにはなるかもしれないが、それはどちらが優れているということではなく、どちらも必要なのだということである。お互いに、どのように協力すべきかという話だと捉えていただきたい。

お猿さんの群を見るとわかりやすい。ヒトに近く、進化という観点からも非常に高度だ。

お猿さんの群において、オスは、オス同士で対決しお互いの強さを競う。そして、最も強いオス(ボス猿)だけが群を束ね、ハーレムを作り、自分の子孫を残すことができる。メスは、最強のオスとの間にだけ子供を作り、育てる。

このルールが、男と女による進化の秘術だった。

男性(オス)の役割は、直接的な「進化」そのものであり、男性には「強い」という能力が求められる。男性のこの役割は単純で明確だ。
しかし、これだけで進化は成立しない。男性が開拓した新しい強さは、種に定着させなければならない。さらに、種の構造が複雑になればなるほど、「強い」をどう定義するかということも問題となる。これらは、「進化」そのものよりも重要な命題であり、これを担うのは、女性(メス)の役割だった。

この、女性に課せられた役割を果たすのは、大変に難しい。ゆえに、女性に求められる能力は多岐にわたり、複雑だ。

まず最初にやらなければいけないのは、「強さ」を何と定義するかだ。種が存続するために必要な「強さ」は、時代背景によって変わる。ヒトの世にあっても、モテる男像は時代によって大きく違う。ケンカが強い体育会系か、頭がキレるインテリ系か、笑いのとれるお笑い系か、といった具合に。「モテる」ということは、「強い」という評価に等しい。間違いのない進化を遂げるために、女性たちには「強い」の定義を定め、真に「強い」男性を見極める能力が求められる。男には理解しがたいほどの鋭い観察眼、第六感などと言われる能力は、このためにある。

そして、「強い」を見極めたら、その「強さ」を守り育む(後世へ伝える)のも女性の重要な役割である。具体的には、まず、子孫の遺伝子に刻み込まれる。それから、文化教養の継承、つまり育児である。育児については少し語弊がある。育児は必ずしも女性の力だけでは行われず、強さの手本となるべき男性にもその責任は分担される。しかし、男性は、最強とはいえ油断はできない。常に他の男性から最強の地位を狙われているからだ。最強の男性は、他から超されないために、常に最強であり続けなければならず、また、ハーレムを作るため子が多い。そのために、育児を主務にするのは難しい。

最も重要なポイントはハーレムを作ると言う点だ。ハーレムというルールの下で子孫を残せるのは、最強のオスだけで、その他のオスは子孫を残せない。一夫多妻制と似ているが、「最強じゃない遺伝子は淘汰され滅ぶべき」という、うんと厳しい掟だ。複数の精子が互いに競い合い、生き残った1つだけが、卵子と受精できるという、精子と卵子の関係も、これに似ている。このような過酷な掟があったからこそ、効率よく、急速な進化を実現しえたのである。

これらの見解を要約すると、男性は「直接的進化」、女性は「進化の定着」を主な役割として担ってきたということになる。種の進化はこの両方の繰り返しによって、着実にステップアップしてきた。これが、男性と女性の基本的な役割であり、男女の身体や精神の構造を決める鍵となった。それは、それぞれの行動の違いにも大きく影響する。

男性と女性の役割分担による進化の図

余談となるが、もうひとつ、種の基本は女性であり、男性は女性から派生したという話がある。女性=神様、男性=ピッコロ大魔王といった具合に。男女という仕組みが目指した「進化」は、やがて極めれば不要になる。男性の役割が「直接的進化」であるならば、男性の役割はやがて不要になるということだ。昨今、日本では、急速な進化に寄与したであろう一夫多妻制は廃止され、女性の社会的地位は男性のそれを上回る影響力を持っているが、これは、「もう進化なんてしなくていいや」と思っているからかも知れない。

この男女の関係と行動の特徴について、いくつか思いついた例を挙げてみよう。

ボス猿世代交代で子供たちは殺される?

お猿さんの群では、ボス猿がいるが、最強のボス猿も齢を重ねれば衰える。そして、次の最強にその座を追われることになる。このときに、新しいボス猿は、なんと先代の子供を殺して回るという習性があるらしい。

「殺して回る」のは結果論だが、その直接的な動機は、セックス。乳飲み子を抱えたメスは、性交渉を拒むため、新しいボスはその乳飲み子を殺して、自分に関心を向かせようとする。この行動は残忍だが、最強の遺伝子を後に伝えるという使命からすると、「最強でなくなった先代のボスの遺伝子は、最強でないため淘汰されるべき」となり、進化の秘術を徹底する姿勢と取ることができる。男たちのこの執拗なまでのエロさは、種の進化に対する執着なのだ。

キケンに晒されたお侍さんの家族

次はヒトの例。

ここに、お侍さんの家があるとする。お侍さんには、妻が一人、乳飲み子が一人いて、3人から構成される家庭を持っている。そこへ、盗賊の一団が武器を持ち、徒党を組んで討ち入ってきた。このとき、お侍さんと妻はどう行動するか。

まず、お侍さん。刀を抜いて盗賊団を倒そうと挑んだ。その間、妻は乳飲み子を抱えて懐に隠し、その場を逃れようと画策する。お侍さんは奮闘し、3人の盗賊を倒すも多勢に無勢、盗賊に斬られて倒れる。妻は逃げ切れず、盗賊団に包囲される。このときの台詞。「この子だけはお助けくださいまし」。

ハッピーエンドではないが、およそ誰が聞いても自然な流れだと思う。この時の、お侍さん(男性)と妻(女性)の行動を、それぞれの役割から検証してみたい。

男性は、男性同士闘って強さを競ってきた。いざというこのシーンは、その「強さ」が試されるときだ。お侍さんは、敵(盗賊団)に戦いを挑む。ここで、この男性は結果として命を落とすわけだが、「闘う」という性質上、男性は死んでも構わなかった。常に死のリスクの中に身を置いて、命がけで家族を守らなければならない。進化の仕組み上、男性は唯一「最強」だけがいればよく、その他の男性は必要ない。死んだのであれば、それは最強ではなかったということであり、必要のない、淘汰されるべき存在だということだ。

妻(女性)の側にしても、最強を見分け切れなかったという点で、見誤った(落ち度があった)といえる。お侍さんは、盗賊を3人斬っている。だから、武芸の腕はそこそこ強かったと思われる。しかし、なぜ敗れたのかといえば、一人で闘ったからだ。この勝負は、高レベルの武芸を身に付けることよりも、仲間を集めて群れることの方が強かったという結果を示している。
女性にとって、最強を選ぶということは、自分と子供を守る盾を選ぶということだ。正しい最強を見誤ると、結果としてわが身を危険に晒すこととなる。

そして妻の行動。この事件で、(盗賊は抜きにして)死んでもいいのはお侍さん(男性)だけであり、妻(女性)と乳飲み子(子孫)は死んではならない。種のノウハウを守り伝えるのが女性の役割であるならば、妻を死なせてしまっては、夫のこれまでの人生を費やしたあらゆる努力が、全て台無しとなり、彼の「強さ」は永遠に失われてしまう。特に、その「強さ」を引き継ぐはずの子孫である乳飲み子は、どうあっても死守しなければならない。

妻は死んではならない存在なので、敵から逃げるという選択をした。そして、自分よりも死んではならない乳飲み子を、懐に「隠し」て、自らを盾とした。これは、自分が「最強」と見込んだ遺伝子を絶やさないために必要な対応である。(これと同様の例で、出産直後のネズミの巣にちょっかいを出すと、母ネズミは子ネズミを食べるという。この行動は、敵から我が子を守るために、体内に隠そうとするのだそうだ。)

(細かい状況設定によって若干の変化はあるとは思うが)ヒトは、本能的にこのような行動をとるはずだ。少なくても、この話を聞いて「自然だ」と感じた読者には、このルールが刻み込まれているはずである。ヒトの進化の過程において、この行動規範が、本能に定着されてきたからだ。

なぜ、女性は化粧を好み、男性は好まないのか

最近でこそ、男性用化粧品とかが流通しているが、「お化粧」といえば、古くから女性の嗜みであり、男性とは無縁であった。この理由は、先ほどのお侍さんの例から見て取れる。これは、コンプレックスの扱い方によって現れる差異である。

お侍さんの例では、コンプレックスは盗賊団によって危機に晒された乳飲み子だ。男性は、コンプレックスの根本を絶とうとするのに対し、女性はそれを隠そうとする。

中高生くらいの年頃では、男女共にニキビとかができやすい。女性では、お薬を塗ってファンデーションで隠す人が多かったのではないだろうか。しかし男性は、指でグイっとつぶして放置するといった光景をよく目にしたものだ。

女性がお化粧とか、おしゃれとかを好むのも、これと同じ理由だと考えられる。(第三者から見ればどうってことのない程度だとしても)お肌のトラブルや、自分の容姿の気に入らない点などがコンプレックスとなり、それを隠そうとする行動が、お化粧だったり、おしゃれだったりするのではないだろうか。

家庭における男性と女性の役割を考える

「男性」と「女性」の組織構造が確立される前には、核とミトコンドリアのような「融合」が土台となり、そして「男性」と「女性」、すなわち「直接的進化」と「進化の定着」の繰り返しによる進化は、今日の複雑な組織構造の土台となっている。

この前提を踏まえて、家庭という身近な組織の構成員として担うべき役割とは何かを考えてみる。

家庭という組織の構成はワンパターンではない。子供がいる場合、いない場合、兄弟がいる場合、おじいちゃん、おばあちゃんがいる場合、いない場合、などだ。この家庭の構成によって、当然あるべき役割分担は変わる。という前提は理解してもらいたい。

健全な家庭を維持し、成長させる上で、必要な仕事を考えると、大きく次のような要素が挙がる。

  1. 狩り
  2. 家事
  3. 出産
  4. 育児・伝承

まず、狩りだが、家庭が種として存続するために必要な食料は、近代ではお金によって代弁される。おまんまを食べることは、そのままお金を稼ぐことを形容する。つまり、お金を稼ぐ人が家庭には必要である。
おまんまを食べるだけでは生活できない。炊事、洗濯、掃除その他、家を維持するために必要な労働が、家事だ。それから出産と育児は、最強の遺伝子を後世に直接的に伝える、種として最も重要な仕事である。

これらの必要な仕事を、家族は分担して行わなければならない。そして、この仕事量を100としたときに、労働人口は夫と妻の2人しかいないので、うまく50ずつ分担しないといけない。

進化の歴史上、戦いを主務としてきた男性が得意とするのは、やはり狩りだろう。世の中がだいぶ平和になったとはいえ、資本主義経済下では常に競争が行われ、敗れた者は職を失う。弱肉強食の厳しい世界は健在である。今なお、男性が仕事に出て、家計を支えている家庭は一般的に多いのではないだろうか。

出産と育児は、女性が得意としてきた仕事で、衣食住を司る家事についても、育児と直結する性格があり、女性が担うことが多い。

出産、育児については、そもそも体に備わった機能という点で、男性が担うのは難しい。しかし、育児について男性は関与しなくてよいわけではない。男性の担うべき役割は何かといえば、「最強の遺伝子」としての「在り方」を示すことである。男児は父の背をみて育ち、やがて父を超えた時に自立の自覚を持つ。女児は、最強の具体例として父を見て育ち、最強の見分け方の手本とする。父のするあらゆる行動が、その模範でなくてはならない。ゆえに、古来親父は家庭の頂点に君臨してきたし、君臨しなければならなかった。親父の威厳は、教育のために必要だったのだ。その意味で、「親はなくとも子は育つ」という諺は、成り立たない。父と母がいて、初めて正しい育児が成り立つのである。

それから、昔の家庭には、おばあちゃんがいて、息子の嫁に文化や技術が継承された。嫁姑問題といわれて嫌がられることが多いが、これも、祖母から母へ、母から娘へ、一族の「強さ」を継承するための大事な営みだったと思う。こういったところからも、「家事は女の仕事」という考え方が定着していったのだろう。

出稼ぎは男、家事育児など内政は女が取り仕切る。これが、古くは家庭像のセオリーだった。では昨今、実際にはどうだろうか。

家事は、家を「守る」という性格上、女性の方が得意そうに見えるが、これは別に性別は関係ない。男性にだって普通にできる。夫婦共に働きに出て、家事は半分ずつで分担している家も少なくないし、特に無理でもないし、問題も起こらない。

家庭が男性と女性の2人構成である場合は、これでいい。しかしここに、出産、育児という仕事が増えると、状況は変わる。

出産は物理的に女性だけに備わった機能で、男性は支援はできるにせよ、代わってあげることはできない。女性が妊娠、出産にかかると、分担してきた家事という仕事は男性側にシフトされ、出産後もしばらくはこの状態が続く。出産後の仕事は育児となるが、結局ここでも男性は女性の代わりには、なかなかなりきれない。女性が社会に出ても働きづらい環境であるということは、結構昔から指摘されており、現在では当たり前のように認知され、理解も深まったように感じるが、出産、育児がその障壁となると、男性としてもなかなか如何ともしがたい、悩ましい問題となる。

古き良き家庭には、おじいちゃんとおばあちゃんがいた。今では全て男性にシフトされる家事も、おばあちゃんがいたから、いくらか楽だった。その後の育児についても同じで、出産で疲弊した女性を助けられるのは、外で戦っている夫しかいない家が多い。

出産後の女性が社会に復帰するためには、子供をなんとかしなくてはならない。かといって、自然となんとかなるまで待っていては、10年とか20年とか先の話となる。おじいちゃんかおばあちゃんが一緒に住んでいれば負担は軽いかもしれないが、そうでないならばなかなか復帰が難しいのが現実ではないだろうか。

女性が家事、育児に専念するならば、男性は「稼ぐ」という仕事に対して、よりいっそうの責任を負うことになる。家族が増えれば家計に掛かる負担も増えるからだ。逆に、女性が社会に復帰するならば、男性は育児、家事の半分を担う必要が出てくる。と、同時に、女性にも、男性が「稼ぐ」に専念できない分の収入を確保する責任を負うことになる。

家庭維持に必要となる仕事の量は一定である。男性にせよ女性にせよ、協力してその仕事量をこなさなければならない。であれば、それぞれの得意分野を担うのが、最も効率がよい。実際には、夫と妻の実際の性格(パーソナリティ)の個人差によって、または家族構成によって、効率のよい分担(各々の得意分野)は異なるだろう。しかし、男性と女性のもって生まれた性質は、この役割分担を検討する際に大いに参考になるはずである。

ちなみに、私の家庭では、妻は専業主婦、私は出稼ぎ。そして娘が一人。という3人構成である。妻は働きに出たがってはいるが、おじいちゃんもおばあちゃんも遠い田舎に暮らしているし、子供もまだ小さい。結局、妻の社会復帰は、なかなか実現しがたいのが現状だ。

愛と、その代償

思春期の私は、あの、核とミトコンドリアの「融合」に、愛の原型をみた。

そのときに、私は、愛を「2つ以上の個が融合し、1つになろうとする引力」と定義した。2人の男女が引かれ合うのも愛だし、親子の間に働く特別な引力も愛だ。核とミトコンドリアが融合した力もまた、愛である。

融合する前には、多くの場合激しい対立がある。核とミトコンドリアも天敵同士だったというし、ライバル同士だった企業が経営統合などでひとつとなることもある。男女が結婚すれば、その生まれ育った環境、文化の違いから激しいケンカをするだろう。これらの「融合」はみな愛の具象であり、このとき起こる衝突は代償となる。衝突の結果、融合は場合によっては失敗することもある。しかし、ケンカ(衝突)するということは、何よりも互いの理解を深めることに貢献する。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」ともいうとおり、ケンカをするためには、まず、相手をよく知らなければならない。結果、お互いが最もよき理解者となりやすいのである。

私の理解が正しければ、キリストの説いた万物への愛は、ニュートンの万有引力の法則と似ている。ニュートンが落とした鉄球も、大地と一体になるときにある程度の衝撃を受けた。

愛を、前述の「2つ以上の個が融合し、1つになろうとする引力」という単純な定義に当てはめるならば、悲しいことだが、戦争もまた、愛の代償というモデルに当てはまるときがある。夫婦同士ならばケンカで済むところも、国同士となれば多くの命が犠牲になる。しかし歴史上、戦争の後には、文化の融合が起こり、国がひとつとなるきっかけとなった例もあり、多くの技術革新が伴い、現在の生活レベルの向上に繋がったことも、また事実である。

しかし、これまでの歴史上の幾多の戦争で、多くの犠牲を払い、その無益であることを、我々は知っているはずだ。その意味と痛恨の記憶を後世に伝え、再度無益な血を流さないための認識と、たゆまぬ努力を定着させなければならない。これが、戦争に対して我々が取るべき進化ではないか。日本もアメリカも、いまや世界の多くの国では、国の政策は民意を反映しているはずである。それでも戦争へ踏み切ってしまうならば、それは国民一人一人の反戦意識が、まだまだ及ばぬがゆえではないだろうか。

社会組織における男性と女性

先ほどの家庭の話では、出稼ぎに出るのは男性向きと言っているが、実際、どんな社会でも必ず女性は求められる。男性と女性は、生命進化の秘術であった。社会の進化は、種の進化、家庭の進化と同じく、相似の形を成しており、ここでも同じく、男性と女性の役割分担が重要な鍵を握る。

ただし、舞台が大きくなると、男性=男、女性=女という法則は成り立たない。男性、女性は、男性らしさ、女性らしさと読み替えていただきたい。

会社の例だ。会社が進化するには、例えば画期的な新商品や新技術の開発が伴う。これは男性的な「直接的進化」だ。しかし、画期的なアイデアがあっても、それを定着し、維持しなければ、その生産ラインを維持できず、安定したサービスの供給ができず、会社は結果として進化できていない。そこで求められるのは、女性である。

例えば、新製品の生産工程を文書に固定し、社内に共有するといったことが挙げられる。この先、その製品を開発した人自身が引退しても、退社しても、50年先、100年先にも、同じ工程で同じ製品が生産できる。これがあって初めて会社の力となりうる、重要な役割である。

このように、男性的な「直接的進化」と、女性的な「進化の定着」を繰り返すことで、あらゆる組織は進化できるのである。

前出の反戦意識もこのひとつである。「強さ」は、「弱点を克服する」ことからも得られる。戦争によって知った犠牲の重さは、戦争というプロセスが持った弱点だ。これを繰り返さない、この弱点を克服する力を、我らが社会は身につけ、定着させなければならない。地球環境問題など、人類が抱えるその他の諸問題についても、概ね同じことが言える。

ただし、企業くらいの複雑な組織になると、女性らしさが「直接的進化」に寄与することもあることを付け加えたい。昨今、「女性の視点から生まれた新しい○○」とか、そういうキャッチフレーズをよく耳にする。ただ、もしかしたら、ここでいう「女性らしさ」は、種(ヒト)、あるいは家庭の構成員としての「女性」であり、企業の構成員としての立場からは「男性らしさ」ととるべきなのかも知れない。いずれにせよ、大半が男で構成された企業組織にあって、女性は新鮮な価値観や物事の見方を提供し、社会に貢献してきた事実は疑いない。

多階層の組織における貢献と報酬のエスカレーション

多階層の組織構造のなかで、貢献と報酬のエスカレーションについてみてみたい。

ここに、会社員 ヒロシ君 がいる。とする。会社員ということは、会社に雇われ、給料を貰っているということだ。この会社では定期的な査定が行われ、会社に貢献していれば給料が上がる。ではなぜ、給料が上がるのか考えてみる。

まず、ヒロシ君は部署に所属している従業員であり、部署は、会社に所属しているという前提がある。「貢献していれば」の「貢献」とは、直接的には、「部署の成績向上に貢献した」ということだ。部署の成績向上は、会社の成績向上に貢献したということに繋がる。会社の成績が向上したということは、その会社が提供した製品なりサービスなりが、マーケットに受け入れられ、売れたということだ。

マーケットはバカじゃない。要らないものにお金を払おうとは絶対にしない。マーケットは、何らかの形で自分を幸せにしてくれる(利益を与えてくれる)ものを欲しがり、それに対して正当な報酬を支払うのだ。つまり、会社が提供したサービスは、その購買者を幸せにした、購買者に貢献したと言える。

すると、儲かった会社は、その利益に貢献した部署を高く評価し、予算が増える。部署は、部署の成績に貢献したヒロシ君を高く評価し、それでやっと給料が上がるのである。

ヒロシ君からマーケットまでは、上位の組織との関係だったが、下位組織に対しても同じことが言える。ヒロシ君が頑張れたのは、(もちろん部署内などの仲間達との協力があってのことではあるだろうが)脳組織や神経系、循環器系、消化器系、呼吸器系、そして腕や脚・・・、ヒロシ君を構成する各器官組織が頑張ったからである。各組織はそれぞれが様々な種類の細胞で構成されており、細胞の1つ1つが頑張ったから、器官組織もまた、頑張れたのである。結果、ヒロシ君の給料は上がり、おいしい食べ物を沢山食べ、休暇を取っては心と体を癒し、その利益は五臓六腑にまで還元されていくことになる。

これは、CSRの考え方にも通じる。世の中への貢献に対する正当な報酬を受けたモデルだ。逆に、世の中に貢献していないのに不当な報酬を受けたのであれば、それは詐欺であり、非難されるべき、あるいは、罰せられるべきことだ。

自己相似的組織とは

やや現実離れした単純な設定かもしれないが、この流れの中で、ヒロシ君と部署、部署と会社、会社とマーケットの関係は、規模こそ違うけれども同じ形、相似の関係にあり、かつ、入れ子になっている。

長い進化の歴史の中で、複数の個が集まって組織を作る。組織を作る際に、過去の経験、つまり、自分自身を組織したという実績を模倣し、自己と相似の形をした組織をつくる。進化の歴史は、それを繰り返してきたのではなかろうか。そして、最後にたどり着く先は、統一宇宙が個となった世界だ。

前述の人類の進化の仕組み、男女という進化の秘術と同様の図式が、そのあらゆる階層で当てはまる。「直接的進化」と「進化の定着」を繰り返す。このように、社会は自己相似的組織の多重階層構造によって成り立っているのである。

この、自己相似的組織の図式を前提とするならば、大きな組織を動かす方法として、相似形の他の組織構造を見れば大いに参考になる。

例えば、ヒトの体組織の構造に置き換えて考えてもわかりやすい。事実、人が集まって構成する組織には、頭脳(社長とか首相とか)があり、神経系(広報部とか報道官とか、ネットだったりも)があり、腕(職人とか)や脚(営業とか)に相当する担当者がそれぞれ存在する。積み上げられたノウハウは、遺伝子(書類や文化)に定着される。もしもそれで上手く行っていないなら、もしかしたら、呼吸器系か、循環器系に相当する担当者が不足しているからかも知れない。あるいは、神経系に何かしらの疾患があるのかも知れない。またあるいは、組織のどこかにがん細胞が潜んでいるのかも知れない。

世のため人のために、何をすべきか

私の組織に対する考え方と、そこへ至るまでのプロセスをご紹介してきたが、この自己相似的組織論を突き詰めて解釈すると、

  • 「世のため人のために、何をすべきか」を主軸に行動せよ。
  • そのために必要なケンカは、常に前向きに、真剣に、手を抜かず行え。

という行動規範が導き出される。誰かのために行った善意は、自分のために還元される。互いをよく知り、一体となるために、ケンカをするときは、前向きに、真剣に相手と向き合え。あらゆる組織の構成員が、このようなスタンスで事に当たるなら、いろいろな紆余曲折を経たとしても、社会全体が必ずよい方向に進む。と思う。

いわゆる「組織論」としては稚拙と思われるかもしれないが、この考え方に行き着いて以来、何に向かって、何を頑張るべきかを明確に意識できるようになった。要するに、世のため人のため(上位組織のため)に身を削ることは、やがて自分のためになって返ってくるということだ。前出の会社員ヒロシ君の例の登場人物に、損をした人、不幸になった人、不利益をこうむった人は一人もおらず、全員が幸せになったじゃないか。

繰り返しとなるが、どんなに小さな努力でも、皆無であっても、それは絶対に無ではない。世のため人のために行動する限り、私の努力は、身近な社会を成長させ、身近な社会はさらにその上位の社会を、自己相似的に成熟させる。

対立した意見を持つ者同士でも、最後の目標地点は同じはずだ。やがて互いに理解を深め、協力し合うときが必ず来る。

たとえ今は無償の奉仕だったとしても、誰かを幸せにした分の努力は、やがて必ず我が身のためとなって返ってくるのだと。私は確信している。

何より、宇宙の進歩と平和のために働くのだと思えば、なんともかっこいいじゃないか。


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コヤナギ トモヤ

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