公開日: 2008年03月19日(Wed)
デカルトの「我思う、故に我在り」の話「我思う、故に我在り。我ならざるは、すなわち在らざるナリか?」の続き。
「我思う、故に我在り」は、我以外の全ては不確実なものだと位置づけた。人間が認知している世界は、五感から得た情報を信用することで成り立っている。その意味では、確認とか、証明とかですら、「信じることで成り立った世界」を根底に置かざるを得ない。
だけど、これだけ信じ尽くして自分の世界を構築してきた、いわば人類は信じることの達人集団であるはずなのに、他人を信じられなくなるという事態が世の中では結構頻繁に起きている。
そもそも「信じられなくなる」という状態は、異なる状況を伝える2つ以上の情報を得たときに起きる。情報がひとつしかなければ、それを信じるしかないが、矛盾する情報を2つ得た場合、一方を信じれば、それはもう一方を信じないという判断となる。このときの迷いが、疑心暗鬼の元となる。
他人を信じられなくなる根拠には、周囲の悪い噂話とか、過去に嘘をつかれたことがある、だまされたことがあるなど、いくらでも考えつくが、誰しも一番最初に比較するのは、自分なのではないだろうか。
こんな具合に。他人を評価するその最初に「私なら」と仮定してみて、ここで矛盾がないかどうか検証する。ここで矛盾があれば、「む?」と何か引っかかる違和感を得るわけだが、完全に主観的価値基準に基づく評価だし、この時点では相手方の主張や事実関係を全く評価していない。
よく考えれば考えるほど、いろんな捉え方ができるわけだが、危険なことに、直感的に感じた最初の違和感(自分との差異)は、その後の評価に大変大きく影響してしまう傾向を持っている。最初に「なんか違う」と感じてしまうと、その後の相手方の主張や状況把握などの評価は、ネガティブな裏付け探しに走りやすいし、逆にこの最初の評価をパスすれば、同じ条件でも好意的に評価されやすくなる。
このような自分本位な評価基準は、「信じる」ための重要な材料となる。しかし、その違和感の根拠が自分との比較にあると意識せず、過信すれば、自分と同じ感覚や思想を持っている一握りの他人しか信じられなくなってしまう。他人と接するからには、最初の違和感を感じることは前提で、その違和感を評価し、許容できるものならば許容する、という柔軟さというか、いい加減さを持っていた方が、物事は円満によい方向へ進むのかも知れない。
公開日: 2008年03月19日(Wed)