公開日: 2014年08月18日(Mon)
今回は、「差別」に関する問題について考えてみたいと思います。
日本に住んでいると、あまり実感する機会は多くないかも知れません。なので、世界で起きている大きな(そして遠い)問題に感じられるかもしれませんが、実はだいぶ身近なところでも差別は起きていて、もしかしたら、そうとは知らず、あなたも差別を行っている可能性もあるという、複雑な問題です。
今回立てた仮説は、「差別」は人間を「分類」することから始まる です。裏返せば、「分類をやめれば差別を是正することができる」可能性があります。また、「平等とは、分類されていない状態のこと」と定義することもできるかもしれません。
この仮説のもとに、いくつかの差別の例をとりあげ、「分類」することをやめることで、差別をなくすことができるか、思考実験してみたいと思います。
はじめに、そもそもの差別の問題について整理してみたいと思います。
Wikipediaを引いてみると、次のように説明されています。
差別(さべつ)とは元来、差をつけて区別することであるが、社会学においては特定の集団や属性に属する個人に対して特別な扱いをする行為を意味する。国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である。」としている。
差別があることで、法の下の平等に関する人権が脅かされることになるので、是正しなければいけません。
国や地域などによって状況は異なると思いますが、たとえば、身分や階級による差別、人種や民族による差別、性差別(ジェンダーギャップ)、年齢による差別、学歴や職業の差別 などさまざまな形で差別は現れ、問題にされます。
差別是正のための考え方の1つに「アファーマティブ・アクション」があります。はじめにここから、考えを進めていきたいと思います。
アファーマティブ・アクションとは、Wikipedia によると、弱者集団の不利な現状を、歴史的経緯や社会環境を鑑みた上で是正するための改善措置のこと
、つまり、差別を是正しようとする解決策の1つです。
説明を読むと(長くて難解ですが・・・)、被差別者(社会的弱者)に対して、対等になるよう調整(特別採用枠を設けたり、点数割増など)し、優遇しようという考え方のようです。Wikipediaの記事だけみても、賛成・反対様々な意見があるようです。反対派の主張としては、逆差別につながるおそれがある という意見が多いようです。しかし、もう少し深く考えてみると、より根本的な問題が見えてきます。この点について説明してみたいと思います。
アファーマティブ・アクションの考え方を取り入れた事例として、アメリカのある大学の入試のシステムについて考えてみます。
アファーマティブ・アクションの実現方法にはいくつか種類があるそうですが(マイノリティに対して点数を加算するなど)、この入試で実施されたのは次のようなルールだそうです。
機会の平等が保証されているという点については、特に異論はありません。入り口は広く開放されていて、民族や人種などによらず、われこそはと思う者は誰でも応募することができます。誰でも応募可能である方が平等です。
問題は、アウトプットのあるべき論の根拠 と 選考のプロセス にあります。
まず、アウトプットが「アメリカの人口の人種構成比率と同じ比率で選出されるはずである」という根拠が、統計である、という点から。
統計ですから、何世代もの入試合格者の民族構成比率を集計していけば、だいたい合ってくるはず、という点は、確かにそうなるかも知れません。しかし、全体を統計した結果と、サンプル1件の結果が同じべき、とはならないはずです。毎世代毎世代、同じ比率になるとは限らないし、そんなの不自然です。応募者の中の特に優秀な人たちの中に、白人が多いこともあれば、黒人が多いこともあるでしょう。確率の問題ですから、その都度ゆらぎが生じるのは必然です。
これは、じゃんけん について同様に統計的にみてみると理解しやすいかもしれません。統計的には、例えば1000回分の勝負をサンプリングして集計すると、グー、チョキ、パーの出現率は同じで、勝率も概ね揃ってくるはずです。つまり、どれが一番強いかといえば、「すべて等しい」ということになります。しかし、1回の勝負において、グーとチョキが同じ強さになるということはありません。それと同じことです。
それからもう1点、統計は全体をおしなべて把握するためにはすごく有用ですが、あまり統計に気を取られすぎると、その要素となっている個別の事象に対する意識がそらされ、重要な要素を見逃す原因になることがあります。このことを念頭に次の思考実験をみてみてください。
次に、選考プロセスについてです。
統計の問題で説明したとおり、入試1回分の応募者を見た時に、人種や民族の比率が一定になるとは限りません(というか、むしろたいていは一定にならないでしょう)。 それを前提に、例をもって考えてみたいと思います。
計算を単純にするために、アメリカの人種構成を、白人50%、黒人50%であるということにします。合格者の選出枠は全体で4名としましょう。とすると、期待される選出結果は、人種構成比率に従うと、白人2名、黒人2名が選出されるはずです。
ここに、白人 3名、黒人3名、計6名の応募者があったことにして、そこから話を始めましょう。
入試ですから、6名いる候補者の中から、スコアの高い順に序列をつけて、高い方から4名を選ぶのがゴール設定になるのではないでしょうか。 アメリカの大学の入試では、ペーパーの学力試験の他に、課外活動での活躍が評価対象になるそうですが、このような観点で、6人の応募者を評価していきます。
その結果として、次のような評価順が得られたとします。
日本人である私のような感覚では、「Dさん、Aさん、Eさん、Fさん、当選おめでとーーー!」とかいってビール飲んでお祝いして終わりにしたいのが正直なところですが、この結果は、はじめに設定したルールに合致していません。
得られた結果は 黒人3名、白人1名ですが、白人 2名、黒人 2名 を選出しなければならないのです。 そこで、ちょっと順番を入れ替える操作をしなくてはなりません。
どうするか。
黒人を1名減らし、白人を1名増やさなければならないので、当選した3人の黒人のうち最下位のFさんを外し、次に現れる白人であるBさんを繰り上げることになります。
これで、Dさん(黒人)、Aさん(白人)、Eさん(黒人)、Bさん(白人)という、期待通りの 白人2名、黒人2名 計4名が選出される結果(=アウトプット)となりました。
さて、どうでしょう。これは民族や人種による差別のない、平等なプロセスといえるでしょうか。 幾つか問いを立てる必要がありそうです。
「白人だから選ばれる」が、まさに差別の問題の原点であり、これを是正するためのルールであったはずです。しかし、このルールを守るために、「白人だから」「黒人だから」という差別的なロジックに依存しなければならない、矛盾した構造を持っているわけです。
さらによくないことに、アウトプットだけみれば平等に見えるため、差別が是正された納得感だけは なんとなーく あること、差別の実体が見えにくいところに隠されてしまって、さらに是正しにくい形で根付いてしまうリスクも抱えているのではないでしょうか。
先に、統計が個別の事象から注意をそらしやすいと指摘しました。統計的分類である「黒人」の人権を守ろうとするために、実際の、個性をもった「Fさん」の人権を侵害していることに、気づきにくくなってしまっていると思います。平等に関する権利は、統計的に概ね保証されてそうだからOK!というわけにはいきません。もれなく、すべての個人に対して保証されなければならないのです。「Fさん」についても、例外にはできないはずです。
ではどうすればよいか? 今回の仮説に従い、分類をやめてみるとどうでしょう。
例えばこうです。
差別感も不平等感もなくなったと思いませんか?
「日本政府は政策目標として、2020年までに指導的地位に女性が占める割合が少なくとも30%となることを努力目標として提言している(参照:Wikipedia「アファーマティブ・アクション」より)」そうです。
この問題も、「女性が占める割合 30% 以上」という枠を最初に決めるという方法なので、前述の大学入試の話と同じ構造を持っています。
会社の経営者を選ぶのに、男性か女性かは関係ありません。会社を経営する手腕があるか という観点で選ばれなければいけません。つまり、能力が不十分なのに男性だから/女性だからという差別的な理由で経営を任せられた人物が、よい成果を出せるとは考えられません。
この文脈では、経営者の中に女性が何人いるかは問題ではないのです。男女の割合などでもなく、その会社に適した、その事業に適した、経営手腕の高い人物を選択できるかどうか、であるべきです。それが可能であるなら、全員男性だろうが、全員女性だろうが、半々だろうが、どうでもいいことです。会社の経営に手腕を発揮できる能力を持っていて、発揮したいと思っていて、それらが認められる人が経営すればよいだけのことです。
これに対する解決方法も、大学入試の例と同じです。男性、女性といった、文脈的に必要のない分類を持ち出したために話がややこしくなっています。男性・女性と呼ぶのをやめて、「候補者」とか「志願者」とか、そういうふうに呼べばよいのです。
ただし、男性・女性の分類を恒久的にやめるということではありません。文脈上必要がない場合だけ、その時だけやめればよいのです。会社では男性・女性は関係ないとしても、デートに誘う相手が男性か女性かわからないのでは困ります。文脈上必要な場合には、ちゃんと分類するべきです。
白人、黒人といったもの以外にも、人間を分類する言葉は無数にあります。そして、とても身近な生活の中で日常的に分類され、整理されています。
例えば、
これらはすべて、人間を分類する言葉です。他にもまだまだたくさんあるでしょう。おそらくこれを読んでいるあなたも、これらのうちのいくつか、というか、いくつもの分類に同時に属しているはずです。
これらの分類のほとんどは、何らかの目的をもって整理され、ラベリングされます。たとえば、政治的な効力(法律や税、社会サービスなど)の有効範囲を明示するためだったり、役割を明確にするためだったり、社会の問題を把握するために分類が必要なこともあります。
これらの分類が、どのように差別に発展していくのか、例をみながら考えてみます。
仕事を持つことができない「失業者」が増えることは、社会的な問題になります。仕事がないということは、収入がないわけですから、衣食住などの基本的な人権を行使することもできなくなるし、税金を支払うこともできません。国はこうした人々に職を斡旋したり、生活保護などの制度を作って対応します。「失業者」が増えると、コストはかさみ税収は減り、本人もつらい思いをするわけで、「失業者」が増えることはよいことではないわけです。
なので、なぜ「失業者」は増えているのか? 「失業者」を増やさないためにどうすればいいか? そもそも「失業者」は本当に増えているのか? など、考えたり、調査したりする必要があります。そのためには、「失業者」というふうに分類しないことには、とても実体をつかみにくくなってしまいます。分類すること自体はやはり必要なのです。おそらく、そうしたことを考えていくなかで、「ニート」などのあたらしい分類が発見され、考案されていくのだと推測できます。
こうした過程で「失業者」や「ニート」という分類が社会問題としてメディアを飛び交うようになります。
これを問題視する社会風潮ができると、まず「失業者」の周りの人々から差別的な扱いを受けることになります。たとえば、おかん です。「まったくお前は一日中なんにもしないでだらだらして」「バイトのひとつでもやったらいいじゃないかい」「働かざるもの食うべからず」のような愚痴を浴びせたりとか、想像に難くないですね。本人も、それなりの仕事について立場を築いていく周りの友人たちを横目に、不安な気持ちをどんどん膨らませていってしまうのです。
そして、働いたら負けかなと思ってる
などといった強烈なワードとともに拡散していくことで、"低い評価" を確立し、定着していくことになります。
"分類" は、"低い評価" を伴うと "レッテル" になります。レッテル化した分類は、そのまま差別の原因になっていきます。
自分が「失業者」や「ニート」に該当する認識がある人々は、ますます自信を失い、そのレッテルから脱出する気力をそがれてしまいます。社会へ出て働くことがだんだん怖くなってきます。これによって、もとの失業率増加の問題がさらに大きくなってしまう悪循環が起きれば最悪です。
少し古い話ですが、過去記事 HTMLは人類史上最もユニバーサルな情報媒体。な、はず。(2009年6月18日) の中で、東大で障害学を研究されている 福島智教授 の話を紹介しました。彼は、自身が目が見えず、耳も聞こえない障害をもっていて、「史上初の東大合格した障害者」などとして話題になったことのある人なんだとか。その当時から今に至るまでに、「障害者」であることによる生きづらさ(たとえば、障害者であることで、アパートを借りたくても断られるなどを体験されたそうです)についてお話されていました。
彼はNHKのテレビ番組 爆笑問題のニッポンの教養 の中で、こんなお話をされていて、印象に残っています。
障害とは何ですか? 障害者とはどういう人ですか? 目が見えない人のことですか? 耳が聞こえない人のことですか?
そういうことではなく、「障害者手帳を持っている人」が障害者なんです。国が定める基準によって判断され「障害者手帳を持つ」ことで、その人は「障害者」になるのです。
その人が「障害者」であることによって、周りからは「障害者」として扱われる。
本来、障害者も、普通の人と同じ、個性を持った、生きた人間です。だのに、「障害者」として取り扱われる。そのことが「障害」なのです。
ちょっと古い記憶なので定かではないですが、こんな趣旨のことだったと思います(ニュアンスが違っていたらごめんなさい)。
この問題は、差別の問題と構造が似ています。(というか、これも差別の問題だと言えるかもしれません)
「障害者」を分類した目的は、社会的弱者の保護です。保護を受けられる人の範囲を決めること、どんな保護が必要かを検討すること、その保護のためにどれくらいの予算が必要か検討すること、などのために、「障害者」という分類は必要だったに違いありません。分類する目的は 善意 によるものでした。
ところが、そのことが、「障害者」以外の人々に対して、「よくわからない(=知識として一般化してないため)が、自分たちとは違う人達」「どう接していいかわからない人たち」という心理を生み、結果的に遠ざけられるという行動につながることもあるでしょう。さらには、「かわいそうな人々」という認識にまでつながると、これは「障害者」という分類がレッテル化した状態といえます。こうした認識が広がると、障害者自身も、自分が「障害者」であることに劣等感を持つことにつながります。
ではどうしたらよいでしょう。ここでも同様に、「障害者」と呼ぶことをやめてみたらどうでしょうか?
どの人が障害者かわからなくなりましたよね?
それでは、誰に優しくすればいいでしょうか?
そんなことを考える必要はないのです。誰にでも等しく、みんなに優しく接してあげてください。(そんなこともあって、私は生活保護などより ベーシックインカムを支持 したいわけです)
北欧四カ国の視察へ行った乙武さんもこうおっしゃってます。
四ヶ国を通じて最も強く感じたのは、北欧の人々は「障害者を特別視しない」ということ。町を歩いていても、交通機関に乗っていても、「お手伝いしましょうか?」と声をかけられたり、特別な対応をされたりすることはほとんどなかった。もちろん、こちらが助けを求めれば快く応じてくれるのだろうが、こちらから頼まなければ、とくに見向きもされなかった。それは、私にとってじつに新鮮で、心地の良い世界だった。
役割の機能不全は、企業内組織などでよく見られると思います。
例えば、デザイナーとエンジニアのような、能力によって役割を分けたとします。はじめは上手く噛み合って機能するので、しばらくは問題になることはありません。しかし、世の中の環境の変化(技術の発展、デザインのトレンドの変化など)によって、役割間の境界が当初の仕切りでは都合が合わなくなってきます。
次第にデザイナーとエンジニアは、お互いの仕事内容に不満を持つようになり、どちらかが優位に立つとか、対立関係に発展する場合もあります。
別の例として、営業職の機能を、第一営業部・第二営業部 というふうに分類し、組織編成した場合はどうでしょう。先ほどの例と異なり、明確に役割を分担したというよりは、単にマネジメントし易いサイズに分割したとか、あえて競争関係の構図をつくることで切磋琢磨させようという意図が含まれていたりします。
こうした組織も、時間とともに状況が変わってきて、だんだん上手く噛み合わなくなってきます。はじめは力量のバランスが上手く取れていても、次第に業績に差がつくようになってきます。すると、業績のよい組織により多くのメンバーが追加され、マネジメントしにくいサイズに成長していったり、あるいは、業績の低い方の組織がレッテル化し、不当な扱いを受けやすい状況が生まれたりします。
これらの場合は、単に分類をやめてしまうというわけにはなかなかいきませんが、分類を見直し、その時々の状況に合わせて最適な分類にアップデートしていくことができれば、問題に発展することを避けられるのではないかと思います。
ちなみに、男性・女性という性別も、人間が本質的にもった役割の分類です。性別に由来する差別(ジェンダーギャップ)の問題も、根本的にはこのパターンに当てはまるのではないかと思います。男性・女性の役割は、何万年もの昔に分担が確立されたもので、歴史が深すぎてにわかにイメージしにくいですが。
ちょっと長くてややこしい話ではありましたが、要点を抽出してまとめてみます。
一方、「文脈によって分類をなくす」とは、要するに偏見をなくすということであって、実際はとてもむずかしいことです。「それができたら苦労しねーよ」と。
ゆえに、アファーマティブ・アクション賛成派の意見の中にある「実効力がある」という指摘については無視できないところです。しかし、本質的に差別構造を抱えた方法であることは、逆に根深い差別を助長するリスクも持っているということでもあります。この点を踏まえ、例えば期限を設けるとか、それ以外の根本的な改善策を同時に検討するとか、導入検討にあたっては細心の注意を払っていただきたいところです。
もう1つ、ここまでみてきた例を眺めると、(Wikipediaの整理とはぜんぜん違うけど)差別の種類を次のように分類できそうです。
特に3つ目については、支配者は悪意を持って意識付けを広めようと画策することでしょう。これに対しては、まずそうした意図はないかと疑ってみて、不当な分類がされていないか見抜き、それがあるならば率先して色眼鏡を外す勇気を持つこと。気付かずに差別に加担することのないよう、一人ひとりが強く意識することが抑止につながるのだと思います。
最後に1つ、サッカーW杯の関連記事からエピソードを。
ボスニア・サッカー連盟でオシム氏を支える元代表主将で元代表監督のファルク・ハジベジッチ氏(56)は、「3民族のうちどの民族の出身ですか」という筆者の質問に「私は人間だ」と言い切った。
つまるところ、これです。これに尽きる。
公開日: 2014年08月18日(Mon)